2014年10月7日火曜日

Theatre Essay観劇雑感「人間界を奇妙な“はざま”から眺める『生きると生きないのあいだ』」2014.10.3吉祥寺シアター


2014.9.27-10.5 吉祥寺シアター
ティーファクトリー+(公財)武蔵野文化事業団提携公演
『生きると生きないのあいだ』
作・演出 川村毅
撮影 宮内勝
「刺さる台詞」という言葉を最初に聞いたのは、ずいぶん以前、野田秀樹へのインタビューだった。「いかに刺さる台詞を書けるかだよね」。刺さる、というのはもちろん観る側の「胸に」、だ。舞台で放たれた台詞が観客の胸に深く刺さった(と見える)時、芝居の作り手は「よし」、と手ごたえを感じるものなのかもしれない。 

…ということを久々に感じたのがティーファクトリーの『生きると生きないのあいだ』。川村毅が、黒澤映画『生きる』とダンカン監督映画『生きない』に触発されて書き、演出した作品だ。「便利屋ハリー」という謎めいた便利屋を舞台に、そこを一人で切り盛りしているハリー(柄本明)と、ある目的をもってそこに居つく青年ジョニー(川口覚)。二人がかかわるヤクザ、老人、男、女らはもう死んでいたり、余命いくばくもなかったり、死にたいと思っていたりと、表題の「生きると生きない」の間あたりをたゆたっている。この人々とハリー、ジョニーたちとの語らいが、弱く強く、「刺して」来るのだ。「人はなぜ働くのか?」「かなしいからです」、(「どうせ死ぬなら助けなんて必要ない」に対して)「100年後には(ここにいる人たちは)皆死んでる、同時代に生きてるってことは同時代に死ぬってことだ。その事実に耐えられるか?」、「あたしには人と共有した時間がなかった、だからあたしには人生が無かった」……。人間や人生をあちらこちらから眺め、切り取ってみせる台詞にはどこか生々しい余韻があり、作者の実体験から得られたものだろうかと想像が膨らむ。
 
2014.9.27-10.5 吉祥寺シアター
ティーファクトリー+(公財)武蔵野文化事業団提携公演
『生きると生きないのあいだ』
作・演出 川村毅
撮影 宮内勝
すべてを悟って生きていたかのようなハリーもまた、過去の恨みを晴らすべく、復讐相手を道連れに電車の前に身を投げる。が、そこに死体は残らない。さては彼までも、もともと「あちら側」の人間だったのだろうか。とり残されたジョニーは便利屋を引き継ぎ、この世には「そんなに悪人はいないと信じたい」と言いながら、人助け稼業に奔走する。誰もいないオフィス。映し出される人々の顔。装置がショートしたのか?煙とともに映像が途切れて芝居は終わるが、場内には人間肯定の空気が満ちる。終盤に叫ばれる「人類に言っておきたい…。奢るな、諦めるな」という台詞は清々しくもある。 

出演者はそれぞれに味があるが、淡々と芝居を運びながら、「折れ」の瞬間にキレの良い芝居を差し挟む柄本明、罪を犯して自死した男サムの亡霊を、ゾンビ的?な身体表現も駆使して演じる笠木誠に、特に目が吸い寄せられる。映像のみの出演の手塚とおるも「人に喜ばれる仕事をしたほんとうの理由」を面白く聞かせ、自分勝手な一人語りの最後に、ふいに「刺して」来る。「わかってたよ、お前は俺だ、ブラザー」。

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