2012年4月12日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感「小説と芝居をゆきかう愉しみ」(2012.2.2 「下谷万年町物語」Bunkamuraシアターコクーン、2.10「金閣寺」赤坂ACTシアター)

『下谷万年町物語』左から藤原竜也、宮沢りえ、西島隆弘
撮影:細野晋司 写真提供:Bunkamuraシアターコクーン

 文学と演劇にはそれぞれに魅力があるけれど、同じ素材を舞台で観、本で噛みしめる楽しさはまた格別だ。久々にそんな体験をさせてくれる作品に、立て続けに出会った。

 1本目は『下谷万年町物語』。原作は唐十郎の自伝的小説(81年、中央公論社刊)で、少年の「僕」が経験した忘れえぬ日々を描く。
今はもう地図上にその名もとどめていない浅草・下谷万年町。戦後間もない昭和23年の当時、そこには娼婦ならぬ娼「夫」や麻薬売人、中毒者がひしめき、誰かの家からしじゅうタンゴの音色が聞こえていた。ある日、僕は場末の劇場で小道具の花を作っている「洋ちゃん」と、瓢箪池に身投げした長い髪の女を助ける。女はその名を「キティ瓢田」といい、相棒の演出家と一座を立ち上げたとたん東京大空襲で彼とはぐれ、その時以来、死んでいるような心持なのだという。相棒と名が同じ「洋ちゃん」と出会ったことで、キティは舞台への情熱を思い出し、彼の一座で舞台に立つ日を夢見始める…。
 誰もがむき出しの魂をぶつけあって生きる下谷万年町では、人々の行動は突拍子もなく、次に何が起こるか予測がつかない。混沌とした世界を探るように読んでゆくうち、キティのせつなく、過剰なまでの舞台愛が物語の軸として浮かび上がる。彼女は無事、「初日」を迎えることができるのだろうか…。
 はらはらしながら、淡々としているようで詩的な文章を加速度的に読み進めてゆくと、最終頁、失われた日々への思いが凝縮された、胸締め付けられるような一文が待っている…という一冊である。
 舞台版は81年の初演、今回とも蜷川幸雄の演出。初演は100人の娼夫を舞台に出して壮観だったそうだが、今回は登場人物を半減。その分、自然と中心的なキティ(宮沢りえ)、洋ちゃん(藤原竜也)、「僕」(AAAの西島隆弘)に目がゆく。舞台前方に本水を引いた瓢箪池に、臆さず、勢いよくダイブしてゆく彼ら。奇想天外な劇世界にもリアリティを持たせる、説得力ある藤原のセリフ、歌手とは思えないほどツボを心得た西島の演技も素晴らしいが、圧巻はやはり宮沢だ。
 筆者が観たのは千秋楽近くということもあってか、はじめ「本当に彼女?」と疑ってしまったほど、喉をつぶし嗄れはてた声でなお叫び、歌う。「僕」をおぶって奇妙な二人羽織ダンスを踊りもする。この声、そして2階席からはよけいにか細く見えるその肢体が、見果てぬ夢に猪突猛進するキティの「痛さ」にオーバーラップ。厚い岩盤を突き抜けるドリルのように、物語は笑いや暴力や死や悲しみを巻き込みながらつき進み、やがて最後の最後に小さな奇跡へとたどり着く。小説では「僕」の切ない夢でしかなかった光景が、ここでは実際にあらわれ、恍惚の中で幕が下りるのだ。ジョイスの『ユリシーズ』もそうだが、紆余曲折の物語の後にヒロインが発する肯定的なひとことには、なんと包容力があることか。こういうセリフを与えられた宮沢は、女優冥利につきるというものだろう。「僕」ならずとも幸福感に包まれるエンディングである。 

もう一本は三島由紀夫の『金閣寺』(1956年『新潮』誌連載開始)。昭和25年に起きた、金閣寺の放火事件がベースとなっている。
吃音に生まれつき、生を呪い、美というものに拘泥しながら生きてきた21歳の学僧、溝口。彼の破滅に至る心情は丹念に言語化され、三島作品の中でも一、二を争う傑作との評価が、国内外で確立されている。筆者もそうだが、学生時代に課題図書として読んだ人も多いと思う。
これだけのベストセラーともなると、原作への思い入れひとかたならぬ観客も多いことだろう。「舞台化など可能なのか?」と批判的に舞台に向き合った人も一人、二人ではないかもしれない。が、筆者が観た折、1幕が終わって場内が明るくなると、後列からこんな声が聞こえてきた。
「原作に忠実だね」「意外にね」。
 大学生だろうか。若い声の男女は、あのくだりも、この部分も「ちゃんと(芝居で)やって(表現されて)いる」と確認するように感想を言い合っていた。
 確かに、はじめに目に飛び込んでくるステージの印象からすると、物語が始まってからの芝居は「意外」だ。
 舞台は、だだっ広くがらんどうの、教室のような空間。コンテンポラリーダンスのセットのような無機質なスペースは、現代的で、『金閣寺』の作品世界からは程遠い印象がある。シェイクスピアなどの古典で起こりがちな、斬新さを追求するあまり観客がついていけない趣向の演出が始まるのか、という不安がよぎる。しかし、一人二人現れた俳優たちが朗読を始め、それが芝居に移行してゆくと、丹念に、こまやかに小説のエピソードがつむがれてゆき、観客はひとまず原典への忠実さに安堵する。面白いのはそのビジュアル表現で、場面が切り替わるたびにアンサンブル(大駱駝艦)の役者たちが机や椅子を流れるような動きで繋ぎ、重ね、たちどころに山道や高台を生み出してゆく。のみならず彼らが周辺で舞踏のエッセンスも入れつつ動くことで、それらは「生きたセット」として機能するのである。(主人公を挑発する「悪友」、柏木が性体験を語る場面で、テーブルの下で彼らがうごめくシーンのエロティシズムといったら!) このイマジネイティブな演出(宮本亜門)が、観念と現実の間を行き交う主人公の表現には意外なほど、しっくりきている。
原作に「忠実」ではないが、舞台においてはこれでいいのだろうと思われる個所もある。例えば、足の悪い柏木に借金の返済を迫られた溝口が、意地悪く何度も小走りで逃げては止まるシーン。原作では溝口は黙ったまま柏木に対峙し、転がってきたボールを拾うのに柏木がどう足を動かすのか凝視している…という場面だが、これをそのまま舞台でやっても、観客にはその意味が分かりにくい。二人を舞台の隅々にまで走らせる今回の演出では、溝口の醜い優越感と口では不敵なことばかり言う柏木のぶざまな側面が鮮やかに浮かび上がる。
 三島が小説で採用していた、一人称の「告白」という文体はどうなるのかと思ったら、溝口が舞台上で演じている間、その心情は他の俳優が語るという、人形浄瑠璃のような手法であらわされている。次第に、このナレーションが悪友の柏木、そして学僧仲間で溝口が羨望を抱く鶴川の声であることがうかがえ、終幕にこの3人が並列するに至って、宮本亜門がこの舞台を、溝口一人の個人的な物語でなく、若者、そしてかつて若者であった人々の、普遍的な「青春の苦悩」の物語として表現してきたことが明確になる。主人公は舞台を「去ってゆく」のではなく、舞台から降りてきて、客席の一つに腰を下ろす。溝口は遠い、舞台の中の人ではなく、「one of us」であったのだ。
小説における溝口は、饒舌ともいえるほど自身の内面をつまびらかに言語化している点において、時に「悩み」や「呪い」が不似合に見える瞬間がなきにしもあらずなのだが、この役を演じた森田剛は、溝口の朴訥な台詞回しが完全に体になじんでいるのみならず、青春特有のもやもやとした鬱屈を全身で表現しており、実は小説版の溝口はその内面を書き(語り)尽くしていなかったのだと気づかせる。柏木独特の哲学をすらすらと語り、痛快ささえ漂わせる高岡蒼甫、まばゆい光を放つイノセントな鶴川を、小細工せずに演じる大東俊介ともども、役とぴたりと一体化していたのは、再演(初演は20111月)ならではのアドバンテージだろうか。
芝居の結びは溝口の台詞、「生きよう」。その言葉は溝口が自らに言い聞かせているだけではなく、この芝居が観客に、世に向かって放つメッセージのようにも聞こえる。大震災を経た今は、ことさらに。宮本亜門の様々な演出作品の中でも、彼らしい(と、以前取材で2度お会いした印象からそう思う)、人間に対する肯定(、愛情)に満ちた舞台である。 

小説を、読む。
そこに描かれた世界が人間の肉体をもってあらわされるさまを、観る。
 観劇後、原典に戻って今度は一語、一語を噛みしめながら読んでみる。
 大勢の人々がかかわった舞台を観た後では、原典への理解は(願わくば)より深まりもし、多様にもなる。
 こういう機会を与えてくれた二本の舞台に、多謝。