2012年1月29日日曜日

Theatre Essay 観劇雑感「ロングランミュージカルで二人の新・主役がお目見得」(2012.1.12劇団四季『オペラ座の怪人』1.21四季劇場・海『美女と野獣』四季劇場・夏)

『オペラ座の怪人』大山大輔(左)
写真提供:劇団四季、撮影:上原タカシ
 ロングラン・ミュージカルの楽しみの一つに、様々なキャストで観る、ということがある。
 同じ演出に基づき同じ表現をしていても、役者の感性、持ち味によって、見え方は様々。
回を重ねるうちに演技に工夫が加わったりもするので、観る側としては鑑賞の度に何らかの発見があるし、見比べるうち、その作品、役がどう演じられて欲しいのかという自分なりの作品観、役柄観が見えてきたりもする。最近も劇団四季のお馴染み演目で、頼もしい新・主役が登場。『オペラ座の怪人』タイトルロールの大山大輔、『美女と野獣』の野獣役、中井智彦である。

 
昨年10月にファントム・デビューした大山は、東京芸大を首席で卒業後、数々の国内オペラ公演でフィガロ、ドン・ジョバンニ等の大役を手掛けてきた花形バリトン歌手。「若いファントム」とは聞いていたが、実際に観てみるとなるほど、若い。(なんと29歳…。映画版のジェラード・バトラーも撮影時3435歳だったが、相手役エミー・ロッサムが役と同じ16歳だったので、そう若さが突出してはいなかった)。
物語の前提には、クリスティーヌと怪人(音楽の天使)の、プラトニックかつ官能的な愛を秘めた師弟関係がある。それがラウルの出現によって脅かされ、怪人は破滅的行為を重ねてゆくのだが、この「前提」はクリスティーヌが怪人に「父」の面影を見ていることによって成立しているため、歴代の怪人たちには「父」にして「師」の自分が愛を成就するすべを知らず、蛮行に及んでしまったという感があった。いっぽう、若くエネルギッシュな大山ファントムの場合、ラウル登場によって引き出された「強引で不器用な愛」が、前面に出る。カルロッタの代役を務めたクリスティーヌを褒める第一声「ブラーヴァ、ブラーヴァ・・・」こそ、彼女の頬を撫でるような優しさだが、艶やかで安定した低音に徐々にドラマ性を加え、後半の「ポイント・オブ・ノー・リターン」では「肉食系男子」さながらの勢いでクリスティーヌに求愛。(昔ウィーンで観た、客席のこちらまで食われてしまいそうな、大迫力のファントムが思い出された。その時は土地柄、歌唱力ありきのキャスティングだったのか、ファントムもクリスティーヌも随分老けていたのだけれど。)
これはおそらく、物語全体の印象を左右するポイントだ。最後にクリスティーヌを失うと、「父性愛」を起点とするこれまでのファントムには「人生にはもう何も残されていない」とばかりに、尾羽打ち枯らした哀れが漂う。解放したクリスティーヌが一瞬戻り、指輪を返して再び去って行くくだりなど、拒絶のダメ押しのようで再び立ち上がれないほどに打ちのめされるところだが、大山ファントムは、さにあらず。クリスティーヌから渡された指輪を「愛した女性の指に一瞬でもはめられていたもの」として、大切に抱く。そこには絶望ではなく、むしろ人間性に目覚めた怪人の、小さな喜びがある。「わが恋は終わりぬ」と歌いながら姿を消すも、その人生はまだまだ続いてゆきそうで、続編への期待ももたげるのである。この日はまだ16回目の出演とのこと。細部の演技は今後、深まってゆくのだろう。

いっぽう、『美女と野獣』は美女=ベルが生来の優しさで野獣に影響を与え、人間として成長させていくという意味で、「姉弟愛」的な側面をもつ物語である。
村人たちには「変わり者」というレッテルを貼られているベルだが、オオカミとの戦いで傷ついた野獣を介抱したり、お気に入りの本を読む順番を譲ったり、彼が文字を読めないことを告白すると、「この本は朗読にぴったりなのよ」とフォローしつつ読み聞かせしてあげる姿は、弟に無償の愛を注ぐ「お姉ちゃん」そのもの。そんな役柄に、折り目正しく、お姉さん的な持ち味がぴったりのこの日のベル、坂本里咲に対して、ビースト役は『オペラ座の怪人』ラウル役で既に四季デビューは果たしている中井智彦。この野獣役、ラストを除けばずっと着ぐるみ状態で表現が限られ、慣れるまではなかなか厄介な役かと思うが、中井のその明るい声質には「甘えん坊王子」の雰囲気がよく出ていて、坂本とのコンビネーションは上々。最後に魔法が解け、人間の姿に戻ると、中井の王子には歴代の同役の中でもとりわけ少年の面影が残っていて、地団太を踏んだり椅子に靴のまま乗って食事をしたりといった、それまでの野獣のいささか子供っぽい行動との連続性がある点もいい。
坂本も既に本作に長く出演しているが、この日のガストン役、野中万寿夫は大ベテラン。ひょっと足を延ばす何気ないしぐさにアニメのような流麗さがあったり、クライマックスに向かって徐々に悪としての凄みを増してゆく様が、流石だ。こうした先輩たちに日々囲まれ、その芸を盗み、自分ならではのビーストを確立してゆくチャンスを与えられた中井には、きっとそれをものにするだろうと期待したい。

数か月して、おそらくは彼らに少しゆとりが生まれ、工夫を試み始めたころに再見してみよう、と思う。彼らの成長を見守る、それこそ「お姉ちゃん」的な楽しみもあるし、また何か、作品についての発見があることだろう。ロングランを重ねる作品にはそれだけの懐の深さが、ある。

2012年1月20日金曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「人類への問いを突き付ける、エンターテインメント・オペラ」(2012.1.15METライブビューイング『ファウスト』東劇)


MET『ファウスト』右からポプラフスカヤ、カウフマン、パーペ
(c)Ken Howard /Metropolitan Opera

 東銀座の東劇ほかで20日まで、METライブビューイング『ファウスト』(グノー)が上映されている。
The Who’s TOMMY」などで知られるブロードウェイ・ミュージカルの演出家、デズ・マカナフのMETオペラ初仕事で、ヨナス・カウフマン(ファウスト)、ルネ・パーペ(メフィストフェレス)、マリーナ・ポプラフスカヤ(マルグリット)らが出演。
演出に「原爆」という、日本人にとっては極めてデリケートなモチーフを取り入れ、視覚面ではヒロインの顔の映像を幕に大写しするという、ミュージカル『マルグリット』から拝借したかのような手法を使い、さらには昨年、原発事故後に「ボローニャ歌劇場来日公演」への出演をキャンセルし、日本のオペラファンに複雑な思いを抱かせたカウフマン(ドタキャン組よりはましだが)の主演…という数々のネガティブ要素にもかかわらず、スリリングなことこの上なく、4時間弱のあいだ目が離せない。早くも、今年の鑑賞作品ベストワン候補の登場、である。 

学問に人生を捧げてきた博士が青春と引き換えに悪魔に魂を売り渡し、恋愛を謳歌し、皇帝に仕え、ギリシャ神話世界へと旅をする…。
中世に実在したという黒魔術師、ファウストス伝説をもとにゲーテが書いた壮大な物語『ファウスト』のうち、グノーは純朴な娘との恋の顛末を描いた第一部をオペラ化している。導入部分こそファウストの物語ではあるが、このヴァージョンでグノーはファウスト本人よりも、彼との出会いから転落し、最後に救済されるヒロインの描写に力を入れているため、後半はほとんど彼女の物語へとシフト。ファウストの物語としてはいささか物足りなさの残るオペラなのだが、マカナフはこれを、物語全体がファウストの夢であるという「入れ子」形式を取り入れることで解決している。
舞台の設定は中世ではなく、1945年の、とある研究室。背後に原爆ドームが映し出され、黒こげになった人々が通り過ぎる。原爆開発者のファウストは、自らの創造物がもたらした悲劇に呆然としながら「無(rien)…」と歌いだす。この歌詞が見事にはまる。原作では「すべてを学んだつもりでも人間は所詮、すべてを知り尽くすことなどできない」と悟った学者の虚無感から生まれる「無…」なのだが、今回の演出ではより具体的な虚無感による「無…」。力強くも陰鬱さを湛えた声のカウフマン、悪の権化を愉快そうに演じつつ、シリアスなテーマをよく心得たパーペもキャラクターにはまり、見事な「つかみ」であると言える。(マカナフはこの演出プランを、長崎を訪れたことで物理学をやめた学者の夫人に出会った経験から、思いついたのだという)。
ファウストは絶望のあまり服毒自殺を試みるが、目の前に現れた悪魔メフィストフェレスに「何でも望みのものを」ともちかけられ、若返る代わりに死後は悪魔に仕えるという契約書にサインする。(虚無感の原因が「原爆」という深刻なものであるだけに、ここでファウストが連呼する「快楽を!」という歌詞には今回の演出上唯一、唐突感、違和感が残る。)
若返ったファウストは町娘のマルグリットに出会い、その純朴さに「この貧しさの中の(心の)豊かさよ…」と感激する。だが人間は弱いもので、メフィストフェレスに宝石箱を贈るよう勧められると、彼女の美徳にはそぐわないこの贈り物を彼女の部屋に置き、様子を見る。敬虔でつつましい生活を送るマルグリットのほうも、宝石を見つけると「ちょっとだけつけてみよう」と身に着け、しばし浮かれる。以降、物語の主人公は少しずつマルグリットへと移行。その潜在願望を見抜いたメフィストフェレスに操られ、彼女は出会ったばかりのファウストに身を捧げて身ごもり、捨てられる。後ろ指をさされ涙にくれながら耐えるマルグリットだが、戦争から帰還した兄がファウストと決闘し、敗れ、妹を呪いながら息を引き取るに至って絶望。神の助けを求めて教会に駆け込み、必死に祈るが、メフィストフェレスに「お前は祈ってはならない」と遮られ、ついに発狂する。グノーが最初に手掛けたシーンだけあって、この場面の音楽は「入魂」というにふさわしく、ヒロインの「内なる悪」にも見えるメフィストフェレスとマルグリットの対決をダイナミックに盛り上げる。(このシーンで整然と並び、歌っている聖歌隊は、白衣姿。大方の観客が、彼らが冒頭に登場した研究所の同僚たちであることを思い出し、さてはこの物語はメフィストの「夢」であるのか?と薄々気づくことだろう。)そうして曲終わり、マルグリットは生まれたばかりの赤子を溺死させてしまう。たった一人の身寄りとしてこよなく愛した兄に見捨てられ、放心する姿。狂気の薄笑いを浮かべながら、赤子に手をかける表情…。「真面目」と「純朴さ」を声にしたらこうなる、とでもいうような本役にぴったりの声のみならず、全身全霊を捧げて演じるポプラフスカヤが、出色。そしてその細部を逃さずとらえ、的確に映し出すカメラワークも、METライブビューイングならではだ。
一度はメフィストフェレス(=内なる悪)に敗れたマルグリットだが、子殺しの罪で牢に囚われ、明日は処刑という時にファウストが脱走をもちかけると、ついに己を取り戻し、牢の中にとどまる。後方に処刑台が現れ、彼女は迷いのない表情で階段を上ってゆく。(ミュージカル『キャッツ』の終幕を思わせる、「昇天」の表現である)。コーラスはここで「キリストは甦りたもう」と歌い、荘厳な音楽に包まれて終幕…であるところを、マカナフは最後に老博士ファウストを再登場させ、手に持った毒薬をあおぎ、倒れさせる。一度は頭をよぎった「青春」も、目の前の(原爆と言う)現実の重さの前では決して幸福には帰結せず、儚く吹き飛んでしまうことを悟ったかのように…。
通常、本作はキリスト教色を色濃く印象づけることが多いそうで、実際キリスト教信仰に基づいた歌詞も多々登場するが、今回マカナフはなるべくそれが前面に出ないよう意識。その結果、マルグリットとメフィストフェレスの戦いは「信心」対「不信心」ではなく、「道徳」と「不道徳」のせめぎあいとして描かれ、作品もキリスト教信仰の枠を超え、普遍的な一つの問いを呈示することに成功している。
「私たちは今、人類に希望を抱くべきなのか。絶望すべきなのか」。
一夜の娯楽として秀逸ながら、同時にずしりと重い問いを突き付けるオペラでもある。

2012年1月7日土曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「『歳の差婚』、姉さん女房の場合。」(2011.12.23新橋演舞場『年忘れ喜劇特別公演』)

「年忘れ喜劇特別公演」ちらしより。画像提供:新橋演舞場

 大正時代の京都。とある長屋に、腕のいい髪結いのおかつと年下の亭主、清之助が暮らしている。
おかつは清之助の浮気を心配して大工の彼に仕事をさせず、日がなごろごろさせている。その分、自分が生計を立てようとするのだが、清之助が気になって仕事に身が入らない。こんなことでは、と長屋の家主たちが一計を案じ、二人に三か月の別居を提案するのだが…。
昭和38年に藤山寛美、酒井光子主演で初演された、松竹新喜劇の名作『銀のかんざし』。3年前からは寛美の娘、藤山直美と歌舞伎役者、坂東薪車が取り組んでいて、今回、初の東京公演を前に薪車にインタビューする機会があった(『TV Taro』関東版20121月号)。門閥外の出身ながら近年大役の機会に恵まれているだけあって、彼の芝居に対する姿勢は謙虚にして貪欲。常に本名の自分が「薪車」という役者を客観視していて、思うような芝居ができない時、努力が足りないと思う時には「そんなことじゃ『薪車』がかわいそうだぞ」と自らを叱咤激励しているのだそう。本作初挑戦の折には、稽古期間が三日しかない歌舞伎界の慣習も手伝って、稽古が始まるまでにがちがちに役を固めて臨んだら、周囲のベテラン勢は台詞も何も覚えていない。稽古の間、互いに相手の芝居を見ながら「そう来たか、それならこちらはこう返そう」と絶えず計算をし、作り上げていくというやり方なのに驚いたのだそうだ。それだのに自分は自分の台詞を言うので精いっぱい。「苦い思い出」だったそうだが、その後回数を重ねるなかで、少しずつ計算ができるようになり、客席の様々な反応も日々、楽しみになってきたそう。「今回はさらに情を深め、思い切り芝居を動かしていきたい」と抱負を語っていたが、さてその成果やいかに。 

「年下の男に対する女性の執着」。それが「片思い」ということなら、歌舞伎の『摂州合邦辻』だとかラシーヌの『フェードル』だとか、いくつかの作品が思いつくものの、本作のように「既に夫婦」という前提の芝居となると、あまり聞かない。そんなレアな設定に敢えて踏み込んだ本作は夫婦、特に女の側の心の機微を、舞台ならではの振り幅の大きな表現で見せてゆく。
冒頭、清之助と家主がおかつの噂話をしている。「束縛」型の彼女と暮らす苦労を語る割に、清之助はおかつに命じられた女物の着物姿にも馴染み、のほほんとしている。この清之助はなかなかに人物像の塩梅が難しそうな役で、いかにも主体性のない「ヒモ」な感じでは安っぽくなるし、かといって年上の女の愛情に包まれるのが心地よい風を出さないと、行動に整合性がなくなるのだが、薪車演じる清之助にはまず、柱にもたれたり、おかつに膝枕をしてもらうなど何気ない所作の一つ一つに、清潔な美しさがある。いっぽうでは、これは年上の女性と付き合うほとんどの男性に共通することだが、男として、仕事を持つ身としての「自信」がそこはかとなく漂い、そこがまた年上の女性から見ると可愛らしい。それまで仕事一筋だったおかつにの人生を一変してしまったのにも、納得がゆく人物像だ。
さて、満を持して登場する藤山直美のおかつは、夫の一挙手一投足に目を光らせ、「あんた!」とけん制。観客の期待通りの(?)、絵に描いたような「鬼嫁」なのだが、ふとした瞬間にいそいそと清之助の足を拭いたり、着替えをさせたり酌をしたり…。日常のしぐさの中に、夫がいとおしくて仕方がないという心情が覗く。かわいがっているだけなら「お母さん」だが、そこは夫婦ということで、夫に甘える場面もある。別居を提案された際、「三か月は長い」と拗ねるおかつを、清之助が「しょうがないなあ」と家主たちの目の前にもかかわらずわらべ歌であやしたり、ぎゅっと抱きしめたり…。傍目には幼稚にしか見えないこんな行動も、当人たちにとっては立派な愛情表現、生活の一部。これをテレビのトレンディドラマばりの「自然な演技」で表現してしまうと、芝居が小さく、つまらなく見えてしまうところだが、直美と薪車はくっきり、たっぷりと演じ、バカバカしくも微笑ましい場面を作り上げ、映像のクローズアップ以上の効果をあげる。二人の「お熱い様子」を見せつけられる家主役、小島秀哉も呆れ果て、いたたまれない風情が絶妙で、おかしさを盛り立てる。
それだけに、後半の深刻な展開は思いがけなく、とりわけおかつが気の毒に映る。夫とは三か月限りの別居のつもりで仕事に精進、もとの評判を取り戻して数日後の再会を楽しみにしているおかつの耳に、実は清之助には若い娘との縁談が進んでいるという話が飛び込んでくるのだ。(このことを話さざるをえなくなる女弟子役の二人、森亜利沙、佐久間春夢が思い切りよく、ドリフばりのドタバタで笑わせるが、ここはもうちょっと間を詰めてもいいかもしれない)。親切心からとはいえ、家主たちは最初から彼女を騙し、清之助から引き離したのだった。ここで、たとえばこれが新派の芝居なら、女の側が「彼のため」と涙を流し、美しく身を引くところだろうが、おかつは違う。大酒をくらい、酔った勢いで刃物を手に、清之助の縁談を進めている雇い主のもとへ、直談判に走り出す。(この、憤怒から浴びるように酒を飲み、駆け出すまでの過程もたっぷりとした見せ場で、歌舞伎の『魚屋宗五郎』のパロディのようだが、実際、そんな演出意図があるのかもしれない。)
入れ違いで、雇い主のもとを飛び出した清之助が帰ってくる。もともと気が優しいのか優柔不断なのか、周囲が勝手に進める縁談を断れずにいた彼だが、「このままではあまりにおかつがかわいそう」と気になって戻ってきたのだ。いっぽう、雇い主のもとから自宅へ追い返されたおかつは、すっかり酩酊し、わめきながら寝入ってしまう。出かけた時の勢いと比べるとかなりカッコ悪い有様だが、この「しょうもなさ」に歌舞伎の和事の二枚目に通じる愛嬌があり、いかにも上方の芝居らしい。清之助は、彼が離れてゆかないよう、おかつがひそかに大事な銀のかんざしを使って打っていた藁人形を発見し、ついに腹をくくり、家主に向かっておかつとは別れないと宣言する。「こんなに(藁人形を打たれるほどに)女に惚れられたこと、ありますか?」。それまでは女の母性的な愛に包まれ、心地よさに身を委ねていた男が、女のいじらしいまでの心情を知り、「自分が守らなくては」という心境に転じるのだ。目覚めた女房を今度は彼の方が、大きな愛で包むように抱き寄せる。二人の新たな関係性を予感させながら、幕は下りる。おかつの一途さが報われる結末に、観客としてはほっと一安心、である。
やはり姉さん女房である筆者からすると、おかつの行動は正直、随分と極端なものに映る。最たるものが、藁人形だ。いくら愛に狂ったとは言え、仕事にそれなりの誇りを持って生きてきたであろう女性が、大切な仕事道具でそんなことをするだろうか。だが劇中、周囲の人々もあれこれと「歳の差婚」を揶揄しているし、まだまだ「姉さん女房」自体が少数であった大正時代ならば、おかつのように追い詰められた心境にも、なりうるのかもしれない。それ以上に、「愛の形はいろいろ。周りがとやかく言うことではない」というところに帰着する筋立てに共感できるし、舞台ならでは、基礎をしっかり積んだ役者たちならではの、様式とリアルを自在に行き交う演技を観るのも楽しい。

この日の客層は家主か、それ以上の世代の女性が多かったが、ブラウン管で展開する、「大笑いして、はい次」式のお笑いを見慣れている若い人にも、時にはこういう喜劇はいかが?とお勧めしたい。デフォルメたっぷり、時にはじれったいようなベタな笑いの中に、そこには名もない、けれど愛すべき人々が確かに息づいていて、人の世の哀れと幸せとを、凝縮して見せてくれる。彼らの存在の余韻…じんわりとした温もりを土産に帰途に就くのも、なかなかいいものですよ。