2012年9月27日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「人間を信じたい」思いに応える朗読劇(2012.9.15『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』文京シビックホール小ホール)


『鴎外の恋』出演の斎藤由貴(中央)、小林隆(右)、ともさと衣(左)。
残念ながら今回、舞台写真は撮影されなかったそうだ。再演があれば、ぜひ。
 いたって普通の人々の日常。
 さらさらと…時にばたばたと…リアルなその様を描きつつ、そこに潜む無数の「おかしみ」を照らし出し、最後に「人生って、悪くない」とあたたかな余韻を残すのが、鈴木聡の作風だ。
 サラリーマンのささやかな幸せと不運を描いた『YMO』しかり、理不尽なお告げに振り回される女たちのドタバタ劇『八百屋のお告げ』しかり。今回はというと、ひょんなことから森鴎外の『舞姫』のモデルとなった女性を探し始めたドイツ在住の女性ライターの紆余曲折。六草いちかの『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社)を構成・演出した朗読劇である。

出演者は斎藤由貴、小林隆、ともさと衣の3人と、ピアノ演奏の佐山雅弘のみ。会場に入ると、その佐山がショパンやベートーベンの有名曲を弾いていて…と思ったら突然演歌のメロディに切り替わったりして、客席のあちこちからくすくすと笑いが起きる。ほどよいリラックス感。
 場内が暗くなり、ともさと、小林、斎藤が一人ずつ登場し、ステージに置かれた3つのソファにそれぞれ腰かける。状況や場面の変化ごとに、彼らはピアノの音色とともに席替えをする。これが、視覚的に退屈になりがちな朗読劇をちょっと立体的に見せる。
 はじめに3人が鈴木聡の内心を代弁するかのように、鴎外の『舞姫』に描かれている恋の顛末がどんなに酷いものか…(主人公は留学先のドイツで踊り子と恋仲になるが、妊娠した彼女を置いて帰国してしまい、踊り子は発狂する)を解説し、気が付けば、斎藤由貴が著者(つまり六草いちか)を、そのほかの人々や地の文の部分をともさと、小林が語る形で、『鴎外の恋』の朗読が始まっている。
『舞姫』は鴎外の自伝的小説と言われているが、ヒロインのモデルについては「どこのだれか」は特定されていない。諸説飛び交い、日本文学史最大の謎とも言われているそうだ。六草はベルリンの酒場でたまたま「その踊り子は、うちのおばあちゃんのダンスの先生だった」という人物と出会ったことから、ジャーナリスト魂に火が付き、「舞姫」のアイデンティティ探しに奔走する。しかし、伝聞というものは案外いい加減なもので、その「おばあちゃん」は実は「ひいおばあちゃん」になり、ついには「舞姫」には縁もゆかりもないことがわかる。名前の分からない女性を探すのは至難の業だ。ドイツ語の名詞、地理、ヒロインの職業…。かすかな手がかりをもとにリサーチを続ける六草だが、なかなか成果は上がらない。すっかり壁にぶつかってしまってもなおあきらめきれない六草に、他の人々が「なぜそんなにまでして(調べるの?)」と尋ね、六草は半ば叫ぶように答える。「彼女に着せられた嫌疑を晴らしたいからよ。人間を信じたいからよ!」
史実では、鴎外が帰国後、モデルとなった女性は彼を追って来日していた。彼女は一か月日本に滞在したのち、横浜から船で帰っていったという。だが、鴎外の妹が綴った回想録によると、見送りに行った際、彼女の表情には少しも憂いがなく、この人は自分の置かれている状況を理解することもできない(つまり、ちょっと頭が足りない)のかと思われたという。また、鴎外の妹は彼女について、「路頭の花」(売春婦)ではなかったかとさえ述べている。六草はこの「頭の足りない」「売春婦」という汚名を不当なものと直感し、また自分を追って来日までした女性をすげなく追い返した鴎外を、「非情な男」なのではなく、何か事情があったのでは…そう信じたい…という思いから、調査をやめることができなかったのだ。この六草の「人間を信じたいからよ!」というセリフを芝居全体の中心に据え、「立たせて」いるところに、鈴木聡の、この原作への共感、そして彼の人柄が感じられる。
地味この上ないリサーチの過程を、その自然なコメディセンスで生き生きと立体化させる斎藤由貴と、明るい声質で場をつないでゆくともさと、六草のはやる心を受け止め、包容力たっぷりにセリフを挟んでゆく小林。この3人のバランスも至極いい。
思いがけないところに記録は残っているもので、『舞姫』ヒロインの女性はとうとう、「エリーゼ」という名を持つ女性で、決して売春婦ではなかったことが判明し、彼女の笑顔の帰国、鴎外の非情さの「理由」も、六草の憶測ではあるが、立ち現れることとなる。その哀しい、しかし「人間を信じたい」という六草の思いの報われる「真実」に、筆者のみならず、観ていた人々は何かあたたかい、爽やかなものを感じながら劇場を後にしたことと思う。あくまで原作のある作品ではあるけれど、今回も鈴木聡らしい舞台だった。

11月には彼の主宰するラッパ屋の公演『おじクロ』があって、今回出演していたともさと衣も出るようだ。ちらしを読むと、「ももいろクローバー」に想を得て、おじさんたちがももクロのダンスを踊ってしまうらしい。
…大丈夫か?!

2012年9月4日火曜日

Theatre Essay 観劇雑感「『痛快時代劇』に終わらない、人の『闇』を描くドラマ」(2012.8.16『大江戸緋鳥808』明治座)

「大江戸緋鳥808」大地真央、東幹久
写真提供:明治座
 新米編集者時代、石ノ森章太郎先生の『マンガ日本の歴史』を担当する部署に仮配属されていた。
担当といっても、新米が先生にお目にかかれるのは原稿受け取りの瞬間ばかり。スタジオに赴き、隣室で待機していると、ことりと扉が開き、先生の姿が覗く。はらりと降りてくる一、二枚の原稿を押し戴き、インクが乾いているのを確認して茶封筒に入れ、会社まで大切に持ち帰る。ぱらぱらとみてしまいがちな漫画だが、その一ページ一ページはこんなにも手間暇をかけて生まれるものか、と感じ入ったことが懐かしく思い出される。先生もアシスタントさんも、みな優しかった。

 今回の舞台はその石ノ森先生の『くノ一捕物帖』シリーズが原作。元・くノ一のヒロイン・緋鳥らキャラクター数名の設定を借りてはいるが、原作のお色気要素(裸で立ち回りをしたりする)は排され、ご落胤を巡る陰謀と戦ううち自身のさだめに苦悩する、彼女の「闇」に焦点を当てている(脚本・渡辺和徳)。反社会的な忍び集団の頭の娘に生まれ、かつて父をお上に差し出して集団を抜けた緋鳥。父の大蛇(おろち)は獄死したと思われていたが、権力を狙う老中・酒井のたくらみで生かされ、ご落胤暗殺の命を受けてひそかに脱獄。花魁・高尾太夫という仮の姿を持ちながらもひそかに正義の老中・松平に仕え、江戸の治安のために働いていた緋鳥は、再度父と対決することになる。
元宝塚トップの湖月わたる、貴城けい。そして原田龍二、山崎銀之丞、東幹久といった主演クラスの俳優たちが演じる、個性豊かなキャラクターたちに囲まれ、大地真央の緋鳥は、花魁のなりでは華やかで美しく、町娘に戻れば江戸っ子らしくさばさばとして頼もしい。だがその真価が現れるのは、彼女が己のさだめに立ち向かうクライマックスだ。観ている側も背中をただすような迫力で悪をたしなめ、父が襲ってきた本当の理由に気づかされると、全身を震わせるように煩悶する。『マリー・アントワネット』(2006年)でも感じたことだが、大地はそのスター・オーラやコメディセンスもさることながら、こと苦境に陥るシーンの芝居がいい。己の全てを投げうち、魂を込めた様には、「演技」「段取り」を感じさせない新鮮さがある。
 その彼女に対する大蛇は、超人的な「悪」として登場し、はじめはおどろおどろしさを見せつけるが、次第にその心情をあらわしてゆく。彼は差別への復讐を原動力として生きてきたが、そのいっぽう、娘には緋「鳥」と名付け、忌まわしい境遇から大空へと飛び立つことをひそかに願っているのだ。この「怪奇味」と心情表現のバランスをどうとるか。歌舞伎の新作なら鼠に化ける「先代萩」弾正のこしらえを借りるなど、「型」を利用することもできようが、今回のようなリアルな芝居ではそうもゆかず、なかなかの難役と見える。演じる隆大介は、娘への思いを吐露する台詞で、一瞬にして「怪物」に人間の血を通わせていて、この役に新劇の演技派が配された理由が納得できる。痛快、華麗なアクション時代劇としてまとめることもできるところを、暗く、屈折した父娘愛を中核に据えることで、本作は陰影を与えられ、ほどよい重さで余韻を残している。石ノ森先生も、こういう形なら「舞台化も、ありなんじゃないか」と頷かれるのではないだろうか。
映像を活用して大仰なセットを排し、スピーディーに場面をたたみかけてゆく序盤の演出も、漫画を読むテンポを髣髴とさせ、好感が持てる(演出・岡村俊一)。時代劇はシリーズ化してこそ楽しみが増すというもの、共演陣も十分すぎるほど充実していることだし、「新・大江戸緋鳥808」、「続…」と続いてもいいように思う。