2012年3月22日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感「ティム・ライスの幻のミュージカル『チェス』が本邦初登場」(2012.1.26 「Chess in Concert」青山劇場)

「Chess in Concert」右から安蘭けい、石井一孝、大野幸人
撮影:村尾昌美 写真提供:梅田芸術劇場

 ミュージカル『チェス』が本邦初上演されると聞き、96年3月、作者のティム・ライスとUKツアー中の舞台を観たことを思い出した。
 ティム…本当はSir Timと呼ぶべきだが、ご本人は「普通にティムって呼んでよ」と言っていたのでここではそう書かせていただく…とは、筆者が大学の卒論で彼の初期作『Jesus Christ Superstar』を取り上げ、インタビューをさせてもらって以来の縁。その時も「今度、ロンドンに出張します」と連絡すると、「ちょうど『チェス』の10周年記念ツアーが始まったから、一緒に観よう」という話になったのだった。
ロンドンから電車で小一時間。ケント州のDartford駅で降り、既に夕闇に包まれた町をファックスされた地図を手に歩くと、すぐにガラス張りのロビーから白い光を放つOrchard Theatreが見つかった。エントランスに足を踏み入れると、ひときわ長身で人懐こい笑顔のティムと連れの女性、そして秘書のアイリーンに迎えられ、客席へ。筆者の隣に座るなり、ティムの連れの女性が「ここ、寒くない?」とパンプスを脱ぎ、細長い足をスカートの中に折りたたんでシートの上に横座りになった。「あたし、冷え症だから応えるのよね。あなたも冷え症?」 まだ学生といってもいいような若い女の子の、おばちゃん然とした口調がそこはかとなくおかしい。幕間に「彼女、どなた?」とアイリーンに尋ねると、「さっき言わなかったかしら?ティムのお友達よ。」ということだった。

Jesus Christ Superstar』『Evita』といったロイド=ウェバーとのコンビ作、『ライオンキング』をはじめとするディズニー作品でミュージカル界のトップに君臨するティム・ライスの作だというのに、『チェス』はこれまで日本で上演されたことがないばかりか、長らく試行錯誤が繰り返された珍しい作品である。
 アバのベニー・アンダーソン、ビョルン・ウルヴァースを作曲者に迎え、米ソ冷戦時代の男女の愛をプログレッシブ・ロックはじめ多彩な音楽で描いた本作は、『Jesus Christ Superstar』『Evita』同様、「レコード→コンサート版→ミュージカルとしてのフルステージ版」という過程を経てきた。84年にアルバムがリリースされると、シングルカットされた「I know him so well」はイギリスで4週連続ヒットチャートの1位に輝き、ラップ風の「One night in Bangkok」もアメリカで3位という幸先のいいスタートを切った。ヒット曲をひっさげたコンサートツアーはまずまず好評、演出家マイケル・ベネット(『コーラスライン』)の病気降板という不運を乗り越え、代打トレバー・ナン演出のフルステージ版も86年、ロンドンで無事開幕する。が、オリジナルに大幅に手を入れた88年のブロードウェイ版は酷評され、2か月あまりで閉幕。以降も上演の度に、本作の演出・構成は微妙に変化している。『オペラ座の怪人』以降、多くのミュージカルで採用されている「オリジナル演出での上演」が本作には条件として付帯していないのだろうが、それにしてもこれほど「定型」の無い作品はミュージカル史上、無いのではないかと思う。その背景には、この作品が本質的に抱える「ちょっと難しい部分」が、ある。

アルバム版の「あらすじ」が6ページにもわたるほど、本作のストーリーは入り組んでいるが、その核となっているのは「チェスの国際試合を舞台とした男女の出会いと別れ」「国家対個人」という二つのテーマである。ヒロインのフローレンスは幼少期、動乱に揺れる故郷ハンガリーを脱し、英国へ移住。今回、試合に出場する「アメリカ人」のセコンドを務め、その恋人でもあるのだが、彼の身勝手さに愛想を尽かしていた。そんな折に対戦相手である「ロシア人」と二人きりで話すことになり、思いがけず恋に落ちる。亡命し、フローレンスと暮らし始めた「ロシア人」は翌年の国際試合にも出場するが、その背後では、アメリカとソビエトの国家の威信をかけた策略が渦巻く…。
 フローレンスと「ロシア人」との恋愛には一見、何の問題もなさそうだが、実は「ロシア人」のほうは妻子持ち。フローレンスとは要するに「不倫」ということになる。「ロシア人」の妻に特に落ち度と呼ぶべきほどの非は見当たらず、主人公たち、とくに「ロシア人」に感情移入できるかどうかは、観客の感性や道徳観によって大きく変わってくるのが、本作の弱みの一つ。中世の昔から貴族階級では政略結婚が珍しくなく、「恋愛」は婚外でするもの、という感覚が芸術にも多大な影響を与えたヨーロッパならいざ知らず、よりキリスト教的モラルに立脚したアメリカ社会で受け入れられるよう、トレバー・ナンが手を入れたくなったのも分からなくはない。
 だがナンは、「国家対個人」のテーマを強調しようとしたのか、セリフを大量に挿入。物語設定や曲順も入れ替わり、2幕頭を華々しく飾っていた「One night in Bangkok」は1幕途中に移動してしまった。アルバム版では1時間半だった内容は3時間15分に膨れ上がり、観客にとっては重厚というより、重さばかりが感じられる舞台となってしまったようだ。
 これを反面教師としてか(?)、以後のプロダクションはブロードウェイ版以前の形をベースとしつつ、それぞれに工夫。筆者が96年に観たUKツアー版も、86年のウェストエンド版をベースに一部ブロードウェイ版の曲順を取り入れた構成だった。シリアスなテーマを掘り下げるというより音楽的な楽しみを大切にした公演で、セットもシンプル。当時すでにスタンダード化していた「I know him so well」などの演奏が始まるたび、客席で「じわ」が起こったのが印象的だった。

ティム自身が「決定版」と評しているのは、2008年のロンドン、ロイヤルアルバートホールでのコンサート版。ブロードウェイ・スターのアダム・パスカル(『Rent』)、イディナ・メンデス(Wicked)、ポップ・スターのジョシュ・グローバンがそれぞれフレディ(「アメリカ人」)、フローレンス、アナトリー(「ロシア人」)を務め、ロンドン・フィルと100人のコーラス、ダンサーたちがステージを埋め尽くした。大規模なコンサートの演出には定評のあるヒュー・ウルドリッジとティムは物語を整理しなおし、「自由に生きるということ」という大きなテーマの中に「恋愛」の要素を包括。これに主役3人の熱唱がはまり、それぞれの苦悩が見事に浮かび上がった。はじめに舞台に上がったティムが「やっとあるべきかたちになりましたよ」と挨拶し、笑いを誘っていたが、それだけ彼にとって本作は愛着の強い「不遇の子」だったのだろう。

さて、今回の日本版である。
 コンサート版とあって、舞台にはバンドが上がり、下手側中央寄りには今回、音楽監督を務める島健のピアノ。中央のアクティングスペースは広いとは言えないが、主人公たちが歌い、その周りで変化自在の6人のアンサンブルが各場面を盛り上げるのには十分だ。
 冒頭、クラウンのような扮装の謎めいたキャラクター(「チェスの精」大野幸人)が無言で踊り始める。つづいて、日本版『エリザベート』のトートを髣髴とさせる長髪ウィッグ美形青年(「アービター=審判」浦井健治)が、「Story of Chess」を歌いながら登場。「なになに」と観客に身を乗り出させる(演出・荻田浩一)主人公3人を務めるのは安蘭けい(フローレンス)、中川晃教(フレディ)、石井一孝(アナトリー)。大人の女性を演じられる数少ない若手スターの安蘭は、不安定な状況下で強く生き抜くヒロインを安定した歌唱力で体現し、のびやかな声の持ち主、中川は暗い過去を抱える天才チェスプレイヤーのナンバーを時に軽快に、時に激しく歌い上げてそれぞれに適役。が、今回特に絶妙だったのはアナトリーのキャスティングだろう。妻子も故郷も捨てて新たな恋に走る彼の心理は、歌詞では説明しつくされておらず、共感を寄せやすいとは言えない。08年のロンドンコンサート版では、陰影のある稀有な声で歌詞の一言一句に深みや説得力を与える歌手、ジョシュ・グローバンがこの難役を引き受け、一見、身勝手な彼の内なる葛藤を描き出すことに成功していたが、今回の日本版では、『ミス・サイゴン』のクリスなど誠実な青年がニンの石井が挑戦。彼ならではのあたたかな声が、フローレンスという「運命の人」に出会い、一気に「自由」への逃避願望が噴き出てくるのを抑えられない姿に真実味を滲ませた。
全編を通して、政治的な側面よりフローレンスとアナトリー、フレディの三角関係に重きを置いた演出だったが、冷戦がしごく身近なテーマとは言いがたい日本人にとっては、このほうがわかりやすい。結局アナトリーはフローレンスの行方不明の父を救うために彼女と別れ、故郷へ帰ってゆくのだが、海外版ではこの後たいてい、この犠牲的な行為が全くの無駄だったというどんでん返しがつく。改めて国家の非情さを強調、という意図なのだろう。『Jesus Christ Superstar』にしても『Evita』にしても、個人の物語をどこか冷めた目で俯瞰してきたティム・ライスらしい。対して今回の日本版は、二人の別れのナンバー「You and I」の余韻のうちに幕となる。この曲の結びが歌詞(But we go on pretending … stories like ours have happy endings…訳詞は「言い聞かせあう 美しい別れだと…」)的にもメロディ的にも切なさに満ちていて、安蘭、石井もしっとり情感を込めて歌っていた分、今回はその余韻に冷水を浴びせるようなセリフなど加えず、そのまま終わる形で良かったと感じられた。

そういえば、96年にOrchard Theatreで一緒に本作を見た「ティムの友達」はその後、「ティムの二番目の奥様」となった。
ヒロインが恋に落ちてからも「いつかは(最初の妻のように)彼に去られる」と意識していて、実際別れることになってしまうミュージカルを、あの時、彼女は心中、どんな思いで見ていたのかしら。
 ただただ気さくで快活な女の子に見えたけれど、きっとフローレンスのような芯の強さを持った女性なのだろう。
 そんなことをふと、思ったりする。






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