2012年12月8日土曜日

Theatre Essay 観劇雑感「温かく、カラフル。木の実ナナの『女子高生チヨ』」(2012.12.2東京グローブ座)


『女子高生チヨ』木の実ナナ(中央)
大阪公演12月11~12日サンケイホールブリーゼ
 何とも愛すべき舞台が、新大久保で上演中だ。『女子高校生チヨ』、60歳にして定時制高校に入学した実在のおばあちゃんの「青春」を、木の実ナナ主演で描いたミュージカルである。(劇中の入学年齢設定は64歳)。

 序盤の「つかみ」は、必ずしもいいとは言えない。物語がチヨおばあちゃんの孫の視線で語られるためか、おばあちゃんがなぜ定時制高校に、という志望動機や家族の反対を押し切る経緯が省かれていて、「うん?主人公はだれ?」ととまどってしまう。木の実ナナの芸歴50周年記念舞台のはずなのだが、チヨの出番がほとんどないまま、物語は定時制高校入学一日目のホームルームシーンへと流れてゆく。

 だが、自己紹介を始めた生徒たちのカラフルな描写に、観客は徐々に魅了されてゆく。テンションの高い中国人留学生もいれば、メイドの扮装をした謎の美女もいる。シングルマザーも、かつて喧嘩沙汰で高校をドロップアウトした青年も、聴覚障害を持ちながら入学した女性もいる。それぞれに訳ありで、やる気のある生徒もいれば自己紹介すらせずに帰ってしまう問題児もいるが、台詞の応酬にはとげがなく、作り手の温かな視線が感じられる(原作:ひうらさとる、脚本:斎藤栄作、演出:板垣恭一)。それぞれ雰囲気にぴったりの曲やセリフが割り当てられていて、全員がキャラ立ちしているのもいい。これは面白くなりそう、と思わせた頃に、満を持して(?)遅刻したチヨが登場。くるくるパーマに学生服、ルーズソックスにヒール靴という女子高生姿に全く違和感のない木の実ナナが、ぱっと舞台に華やぎを与え、ここからが本当の始まり、始まり。

 2世代も年下の同級生たちとのコミュニケーションや勉強の難しさに、チヨは当然のようにはじめは苦労し、落ち込みもする。だが、中国人に怪しげな「愛の言葉」を教え、シングルマザーを励まし、飛び降り自殺寸前の美女に「あなたが私を嫌いでも、私は好きよ!」と語りかけて思いとどまらせるなど、生来のおせっかいが現代の若者たちには逆に珍しく、次第に「チヨさん、チヨさん」と慕われるようになる。この役を演じる木の実は、ちょっとした仕草や立ち姿が美しく、スターオーラに満ちていて、実際にはこんなおばあちゃんはそうそういない…はずなのだが、舞台を観ていると、実際の「チヨ」さんもきっとこんなふうなのでは?と思うほど、リアリティを感じさせる。彼女自身の嫌味の無さや、ポジティブな「気」によるものなのだろう。

 前述のとおり生徒たちもそれぞれに個性的だが、とりわけ、音楽をあきらめかけた青年を励まそうと、シングルマザー(明星真由美)と聴覚障害の生徒(大橋ひろえ)がドリカムの「何度でも」を歌い踊るシーンは圧巻だ。大橋は実際に「耳の聞こえない世界の住人」とプログラムのプロフィールにあるが、他のミュージカルナンバーでも完璧にリズムをとらえて踊っていて驚かされるし、明星の歌声には「挫折のなんたるかを知る人」の魂が凝縮されているようで、思わず引き込まれる。高橋愛(チヨの孫役)、窪塚俊介(中国人役)、小沢真珠(美女役)といった、主に映像で活躍中の俳優も、先生役の新納慎也(ミュージカル界のホープ…と思っていたら、いつの間にかアドリブ自在の頼もしい俳優として、最近つとに大活躍)、理事とチヨの亡き夫の二役の大和田獏(「ゆ~れい、ゆ~れい、ゆ~れいほ~」と歌いながらの登場は本当に楽しそう)といったベテランも、自分の役を生き生きと膨らませつつ、カンパニーとしてよくまとまっているのも、木の実という太陽のような中心軸があってのことなのかもしれない。

 物語後半、定時制クラス廃止の危機にあった生徒たちは、「学園祭でミュージカルを演じ、来校者に存続をアピールしよう」と立ち上がるのだが、やっとのことで上演となった「シンデレラ」は、王子役の中国人が舞台上で役を離れ、「美女」に愛の告白を始めるわ、王子の弟が二人も出てきてシンデレラに求愛するわで大混乱。このドタバタが、ミュージカル形式で展開され、やたらとおかしい。大笑いの後に、「魔女」役のチヨおばあちゃんが、現実逃避に走っていた孫娘に「ちちんぷいぷい」と魔法をかけると、彼女は「本当の自分と向き合おう!」と渡米を決意する。そして、定時制クラス廃止の計画もとりやめになったことが知らされ、大団円とあいなる。

 なるほど…と、観客は思う。出ずっぱりで舞台をひっぱってゆくのではなく、若い世代の中に自然にとけこみ、こんなふうに素敵な魔法をかけてゆく…。これはもしかしたら、芸歴50周年を迎えた木の実ナナというスターの、今の心境に重なるものなのかもしれない、と。年末にぴったりの、じんわりと温かく、後味爽やかな舞台である。

2012年12月5日水曜日

Theatre Essay 観劇雑感 番外編 「心の中の勘三郎さん」2012.12.5


 中村勘三郎さんが亡くなったというニュースを、信じられない思いで読んだ。 

「うまい役者」であった。
 どんな役も滑らかにこなしたが、とりわけ黙阿弥等の世話物を演じると、様式とリアリズムの塩梅が絶妙な演技で、観客を自然に江戸の世界にいざなった。
「髪結新三」の小悪党の凄み。「籠釣瓶」の純情男の狂気。「四谷怪談」の裏切られた女の怨念。「三人吉三」の非情な兄貴分。
 現在も活躍中の尾上菊五郎と並んで、歌舞伎の「世話物」というもの、ひいては「江戸の息吹」というものを今に伝えられる、希少な役者だった。
 時代物では、「忠臣蔵」塩谷判官や九段目のお石ら、封建社会の枠組みの中で理不尽な運命に耐える人々を、品性と悔しさとを滲ませながら演じた。
 

 同時に、群を抜いた「プロデューサー」でもあった。野田秀樹や串田和美、渡辺えり子ら、現代劇の人々を歌舞伎に引き入れ、「野田版 研辰の討たれ」のような傑作を生みだし、コクーン歌舞伎で古典の新演出を試みた。江戸時代の芝居のスピリットを「平成中村座」で体現もした。2004年の平成中村座のNY公演では、現地の風景や人々を取り込む演出で、それまで「歌舞伎と言えば隈取、女形…」といった古典的なイメージしかなかった海外の人々に、江戸時代に本来歌舞伎が持っていた「アバンギャルドな芸能」という側面を見せもした。間違いなく、21世紀の歌舞伎の可能性を拓いた人だった。一度、ある雑誌の対談企画をコーディネートしたことがあるが、表では常にエネルギー全開のように見える彼が、対談では楽しいエピソードを繰り出しながらも、要所要所では思慮深く言葉を選んでいた。大きな夢を次々と実現してきたのは、彼の役者としての技量と人気に加えて、この聡明さがあってこそだと感じたものだった。 

 そして何より、「チャーミングな役者」だった。歌舞伎座でも、コクーンでも、NYでも、彼は花道から舞台から愛嬌たっぷりに登場し、観る人の心を掴んだ。「役者本人であると同時に役を演じる」という、歌舞伎独特の役者の在り方を体現していた。筆者は学生時代、ある役者さんの付き人をしていて、花道鳥屋で勘三郎と遭遇したことがあったのだが、筆者が学生歌舞伎である役を演じると知って「あの役はね、これこれの型でやってみると面白いんですよ」と、もう1分後には出番だというのに別の芝居の話を、学生相手に、実に丁寧にしてくれた。そしてきりっと役に切り替えると、鳥屋から花道へと踏み出していった。
 チャリンという音の余韻の中を、歩いてゆくその後ろ姿の残像が、今、心の中に蘇る。

2012年9月27日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「人間を信じたい」思いに応える朗読劇(2012.9.15『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』文京シビックホール小ホール)


『鴎外の恋』出演の斎藤由貴(中央)、小林隆(右)、ともさと衣(左)。
残念ながら今回、舞台写真は撮影されなかったそうだ。再演があれば、ぜひ。
 いたって普通の人々の日常。
 さらさらと…時にばたばたと…リアルなその様を描きつつ、そこに潜む無数の「おかしみ」を照らし出し、最後に「人生って、悪くない」とあたたかな余韻を残すのが、鈴木聡の作風だ。
 サラリーマンのささやかな幸せと不運を描いた『YMO』しかり、理不尽なお告げに振り回される女たちのドタバタ劇『八百屋のお告げ』しかり。今回はというと、ひょんなことから森鴎外の『舞姫』のモデルとなった女性を探し始めたドイツ在住の女性ライターの紆余曲折。六草いちかの『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社)を構成・演出した朗読劇である。

出演者は斎藤由貴、小林隆、ともさと衣の3人と、ピアノ演奏の佐山雅弘のみ。会場に入ると、その佐山がショパンやベートーベンの有名曲を弾いていて…と思ったら突然演歌のメロディに切り替わったりして、客席のあちこちからくすくすと笑いが起きる。ほどよいリラックス感。
 場内が暗くなり、ともさと、小林、斎藤が一人ずつ登場し、ステージに置かれた3つのソファにそれぞれ腰かける。状況や場面の変化ごとに、彼らはピアノの音色とともに席替えをする。これが、視覚的に退屈になりがちな朗読劇をちょっと立体的に見せる。
 はじめに3人が鈴木聡の内心を代弁するかのように、鴎外の『舞姫』に描かれている恋の顛末がどんなに酷いものか…(主人公は留学先のドイツで踊り子と恋仲になるが、妊娠した彼女を置いて帰国してしまい、踊り子は発狂する)を解説し、気が付けば、斎藤由貴が著者(つまり六草いちか)を、そのほかの人々や地の文の部分をともさと、小林が語る形で、『鴎外の恋』の朗読が始まっている。
『舞姫』は鴎外の自伝的小説と言われているが、ヒロインのモデルについては「どこのだれか」は特定されていない。諸説飛び交い、日本文学史最大の謎とも言われているそうだ。六草はベルリンの酒場でたまたま「その踊り子は、うちのおばあちゃんのダンスの先生だった」という人物と出会ったことから、ジャーナリスト魂に火が付き、「舞姫」のアイデンティティ探しに奔走する。しかし、伝聞というものは案外いい加減なもので、その「おばあちゃん」は実は「ひいおばあちゃん」になり、ついには「舞姫」には縁もゆかりもないことがわかる。名前の分からない女性を探すのは至難の業だ。ドイツ語の名詞、地理、ヒロインの職業…。かすかな手がかりをもとにリサーチを続ける六草だが、なかなか成果は上がらない。すっかり壁にぶつかってしまってもなおあきらめきれない六草に、他の人々が「なぜそんなにまでして(調べるの?)」と尋ね、六草は半ば叫ぶように答える。「彼女に着せられた嫌疑を晴らしたいからよ。人間を信じたいからよ!」
史実では、鴎外が帰国後、モデルとなった女性は彼を追って来日していた。彼女は一か月日本に滞在したのち、横浜から船で帰っていったという。だが、鴎外の妹が綴った回想録によると、見送りに行った際、彼女の表情には少しも憂いがなく、この人は自分の置かれている状況を理解することもできない(つまり、ちょっと頭が足りない)のかと思われたという。また、鴎外の妹は彼女について、「路頭の花」(売春婦)ではなかったかとさえ述べている。六草はこの「頭の足りない」「売春婦」という汚名を不当なものと直感し、また自分を追って来日までした女性をすげなく追い返した鴎外を、「非情な男」なのではなく、何か事情があったのでは…そう信じたい…という思いから、調査をやめることができなかったのだ。この六草の「人間を信じたいからよ!」というセリフを芝居全体の中心に据え、「立たせて」いるところに、鈴木聡の、この原作への共感、そして彼の人柄が感じられる。
地味この上ないリサーチの過程を、その自然なコメディセンスで生き生きと立体化させる斎藤由貴と、明るい声質で場をつないでゆくともさと、六草のはやる心を受け止め、包容力たっぷりにセリフを挟んでゆく小林。この3人のバランスも至極いい。
思いがけないところに記録は残っているもので、『舞姫』ヒロインの女性はとうとう、「エリーゼ」という名を持つ女性で、決して売春婦ではなかったことが判明し、彼女の笑顔の帰国、鴎外の非情さの「理由」も、六草の憶測ではあるが、立ち現れることとなる。その哀しい、しかし「人間を信じたい」という六草の思いの報われる「真実」に、筆者のみならず、観ていた人々は何かあたたかい、爽やかなものを感じながら劇場を後にしたことと思う。あくまで原作のある作品ではあるけれど、今回も鈴木聡らしい舞台だった。

11月には彼の主宰するラッパ屋の公演『おじクロ』があって、今回出演していたともさと衣も出るようだ。ちらしを読むと、「ももいろクローバー」に想を得て、おじさんたちがももクロのダンスを踊ってしまうらしい。
…大丈夫か?!

2012年9月4日火曜日

Theatre Essay 観劇雑感「『痛快時代劇』に終わらない、人の『闇』を描くドラマ」(2012.8.16『大江戸緋鳥808』明治座)

「大江戸緋鳥808」大地真央、東幹久
写真提供:明治座
 新米編集者時代、石ノ森章太郎先生の『マンガ日本の歴史』を担当する部署に仮配属されていた。
担当といっても、新米が先生にお目にかかれるのは原稿受け取りの瞬間ばかり。スタジオに赴き、隣室で待機していると、ことりと扉が開き、先生の姿が覗く。はらりと降りてくる一、二枚の原稿を押し戴き、インクが乾いているのを確認して茶封筒に入れ、会社まで大切に持ち帰る。ぱらぱらとみてしまいがちな漫画だが、その一ページ一ページはこんなにも手間暇をかけて生まれるものか、と感じ入ったことが懐かしく思い出される。先生もアシスタントさんも、みな優しかった。

 今回の舞台はその石ノ森先生の『くノ一捕物帖』シリーズが原作。元・くノ一のヒロイン・緋鳥らキャラクター数名の設定を借りてはいるが、原作のお色気要素(裸で立ち回りをしたりする)は排され、ご落胤を巡る陰謀と戦ううち自身のさだめに苦悩する、彼女の「闇」に焦点を当てている(脚本・渡辺和徳)。反社会的な忍び集団の頭の娘に生まれ、かつて父をお上に差し出して集団を抜けた緋鳥。父の大蛇(おろち)は獄死したと思われていたが、権力を狙う老中・酒井のたくらみで生かされ、ご落胤暗殺の命を受けてひそかに脱獄。花魁・高尾太夫という仮の姿を持ちながらもひそかに正義の老中・松平に仕え、江戸の治安のために働いていた緋鳥は、再度父と対決することになる。
元宝塚トップの湖月わたる、貴城けい。そして原田龍二、山崎銀之丞、東幹久といった主演クラスの俳優たちが演じる、個性豊かなキャラクターたちに囲まれ、大地真央の緋鳥は、花魁のなりでは華やかで美しく、町娘に戻れば江戸っ子らしくさばさばとして頼もしい。だがその真価が現れるのは、彼女が己のさだめに立ち向かうクライマックスだ。観ている側も背中をただすような迫力で悪をたしなめ、父が襲ってきた本当の理由に気づかされると、全身を震わせるように煩悶する。『マリー・アントワネット』(2006年)でも感じたことだが、大地はそのスター・オーラやコメディセンスもさることながら、こと苦境に陥るシーンの芝居がいい。己の全てを投げうち、魂を込めた様には、「演技」「段取り」を感じさせない新鮮さがある。
 その彼女に対する大蛇は、超人的な「悪」として登場し、はじめはおどろおどろしさを見せつけるが、次第にその心情をあらわしてゆく。彼は差別への復讐を原動力として生きてきたが、そのいっぽう、娘には緋「鳥」と名付け、忌まわしい境遇から大空へと飛び立つことをひそかに願っているのだ。この「怪奇味」と心情表現のバランスをどうとるか。歌舞伎の新作なら鼠に化ける「先代萩」弾正のこしらえを借りるなど、「型」を利用することもできようが、今回のようなリアルな芝居ではそうもゆかず、なかなかの難役と見える。演じる隆大介は、娘への思いを吐露する台詞で、一瞬にして「怪物」に人間の血を通わせていて、この役に新劇の演技派が配された理由が納得できる。痛快、華麗なアクション時代劇としてまとめることもできるところを、暗く、屈折した父娘愛を中核に据えることで、本作は陰影を与えられ、ほどよい重さで余韻を残している。石ノ森先生も、こういう形なら「舞台化も、ありなんじゃないか」と頷かれるのではないだろうか。
映像を活用して大仰なセットを排し、スピーディーに場面をたたみかけてゆく序盤の演出も、漫画を読むテンポを髣髴とさせ、好感が持てる(演出・岡村俊一)。時代劇はシリーズ化してこそ楽しみが増すというもの、共演陣も十分すぎるほど充実していることだし、「新・大江戸緋鳥808」、「続…」と続いてもいいように思う。

2012年7月14日土曜日

Theatre Essay 観劇雑感「『魂の不滅』という希望」(2012.7.14劇団四季『アイーダ』)

劇団四季『アイーダ』冒頭シーン。(c)Disney 撮影:下坂敦俊 四季劇場「秋」にて8月12日まで上演中。http://www.shiki.jp/
 エルトン・ジョン&ティム・ライスの『アイーダ』が、久々に東京で上演されている。
100回生まれ変わっても続く」ほどのゆるぎない愛をシンプルに、室内オペラ風に描いた本作は筆者の好みで、これまでも日本はもちろんオランダ、米国、韓国など、各国版を楽しんで来た。今回の東京版も、堂々たる女王のたたずまいと情の深さを醸し出す秋夢子のタイトルロールが適役で、引き込まれる。
 舞台を観て間もなく、英国への家族旅行の折に大英博物館を訪れた。ベビーカーを押しつつロゼッタストーンなどの「必見コーナー」や筆者が愛するケルト美術を堪能し、「そろそろ帰ろうか」と館内地図を見やると、「Nubia」の文字が目に飛び込んで来る。『アイーダ』のヒロインが劇中、誇りと愛情を持って語り、歌っていた故郷、ヌビアだ。大英にはこれまでにも何度か来て、ほとんどの展示室を見ている筈なのに、不思議とこのコーナーの印象はない。幸い、娘はまだぐっすりお昼寝中。「もう少しだけ」と、ベビーカーごと踵を返した。
 ヌビアとはナイル河の中ほど、アスワンから南の地方のことで、今で言うエジプトとスーダンにまたがっている。「ヌビア、スーダン」室の展示は、この地方の沿革を、主に土器などの発掘品や古代エジプトに残された資料を通して紹介しているのだが、古代エジプト室の隣、というロケーションが災いして(?)か、ほとんどの人が足早に通り過ぎていく。エジプトのミイラや絢爛たる埋葬品にさんざん胸躍らされた後では、簡素な土器が余計に地味に見えてしまうのだ。
 唯一、人々が足を止めて見入っているのが、中央に置かれた小さなスフィンクス。紀元前
680年ごろのもので、エジプトのあのスフィンクスとだいたいの形は同じだが、顔つきがどこか違う。当時のヌビアの王国、クシュのタハルカ王がモデルだという。ヌビアはその歴史の大半においてエジプトに征服され、『アイーダ』もそのさなかに侵略者と捕虜として出会う将軍と王女の悲恋物語だが、実際には、長い時の流れの中でエジプト王国は凋落し、やがてペルシャやローマに征服されるところとなる。タハルカはその少し前に、内乱状態のエジプトを統一し、よく治めたクシュ王の一人だった。
 壁画だろうか、古代エジプト人が描いた「ヌビアの男性像」にも目が留まった。濃い褐色肌に細く縮れた髪、スレンダーな体。大きなイヤリングと豹皮の腰巻がなかなかお洒落で、これは典型的なヌビアの男性像だという。エジプト人とは明らかにルックスが異なり、『アイーダ』をアメリカやオランダで観た時、ヌビア人のアイーダはアフリカ系、エジプトの人々は白人の役者が演じていたのにも納得がゆく。そういう意味では、かすかに外国語のアクセントの残る秋夢子がアイーダを演じる現在の東京版も、真実味のあるキャスティングだと言える。
『アイーダ』の舞台設定は紀元前1800年代、エジプトが金などの鉱物資源と奴隷獲得を狙って、何度もヌビアに侵攻していた頃らしい。その年代の展示品の中に、ひょっとして、アイーダの生きた証が潜んではいないか…。淡い期待を持ってなめるようにガラスケースを覗くも、『アイーダ』はフィクションゆえ、あるはずもない。物足りなさを補うように、帰国後、ヌビアについての資料を探した。そのなかで『ナイルに沈む歴史―ヌビア人と古代遺跡―』(岩波新書)という一冊に、少なからず衝撃を受けた。
 本著は1960年にナイルを上り、ヌビアの遺跡を調査したエジプト学者、鈴木八司の紀行書である。アスワンハイダム建設に伴うユネスコのヌビア遺跡救済キャンペーンに、日本はどのような形で参加するべきか。検討材料を集めるべく、現地に派遣された筆者は、チャーターした船がおんぼろで舵が流されたりエンジンが止まったりと、散々な目に遭いながらも、「マーレーシ(仕方ない)」精神でやり過ごし、ダムの底に沈む運命にある各地の遺跡を訪ねる。冒険さながらの紀行文は読み物として純粋に楽しいが、最終章に入るとそのトーンはがらりと変わる。ヌビアの歴史、ヌビア人の性質(「頑固なまでに誠実」だという)や典型的なライフスタイル(エジプトなどに出稼ぎし、ある程度の財をなすと帰郷し、家を建てる)を簡潔に紹介した後で、鈴木氏は、人類がダム建設に際し、大切な視点を忘れていたのでは、と問題提起をしているのだ。
 アスワンハイダムはナイル河の水量を一定にし、農業と電力供給に役立たせるべく建設されたが、その結果、長さ500キロ、最大幅約30キロの人造湖が出現し、約4000キロ平方メートルの土地が沈むことになった。そこには数多くの古代遺跡があり、ユネスコは世界各国に呼びかけ、先進諸国がこれらを競って調査・移築した。現在、観光地として多くの人々を集めるアブシンベル神殿などは、その成果の一つである。いっぽう、水没地域に住んでいた10万ものヌビア人は、エジプト、スーダン両国政府により、故郷から遠い入植地への移住を命じられた。特に遠方の僻地への移住を、有無を言わせず強いられたスーダン側のヌビア人たちは激しく抵抗したが、そのことは国際的な話題にさえ、ならなかったという。
 かくして、10万ものヌビア人が故郷を失った。「ヌビア人は人為によってすでに滅亡したともいえる」と鈴木氏は述べる。ダム建設にあたり、世界は遺跡を気遣いはしたが、そこに住む人々は忘れ去られてしまった…というのである。

 例えばアイルランド人は故郷を離れても、ルーツに強い誇りを持ち、世代から世代へと固有の文化を伝えてゆく傾向がある。その土地を離れたからといって、すぐにその民族が「滅亡した」とは思わないが、人間の気質や文化の醸成にその土地の風土紀行が大きな影響を与えることを考えると、多くのヌビア人が大なり小なり、アイデンティティを奪われてしまったことは否めない。(フェイスブックが「アラブの春」を起こしたことを思えば、今、この問題が起こっていたら違う展開となっていたかもしれないけれど。)
 王国も文化も、長い時の流れの中では儚いものだ。では、この世に「永遠に」続くものなど何一つ、無いのだろうか。
 いや、「ある」というのが、舞台『アイーダ』のテーマであり、あの冒頭、幕切れの演出だ。
 
筆者も、そう思う。この世のすべては儚いものだが、唯一この魂、この愛は、この体が朽ち果てようとも、どんなに長い時を経ても、続いてゆく。そう信じることで、希望が生まれる。生きる「力」となる。
 次にこの舞台を次に観るときには、ヌビアの10万もの民の痛み、喪失感にも思いを馳せつつ、魂の不滅という「希望」を、再確認したいと思う。

2012年6月21日木曜日

Today's Report [Art] 「儚さ」を描くスイスの絵本作家、クライドルフ (2012.6.18『クライドルフの世界』展Bunkamuraザ・ミュージアム)

『花を棲みかに』より《まま母さん》水彩、墨・紙 1926年以前 ベルン美術館蔵(c)Prolitteris,Zurich
「スイスの絵本画家 クライドルフの世界」展は7月29日までBunkamuraザ・ミュージアムにて開催中。http://www.bunkamura.co.jp/
プレスプレビューでギャラリートークを行うクライドルフ財団のバルバラ・シュタルク理事。背後はこびとたちが白雪姫に会いにゆく物語を描いた『ふゆのはなし』(日本では福音館が限定復刊)の原画。ドイツでは今でもベストセラーだという。
 展示室に入ると、まずは数点の人物像が目に入る。1枚目は画家が自身の作品に欠かせない要素―花、蝶、昆虫たち―に囲まれるように自らを描いた、まるで名刺のような自画像なのだが、カラフルで意味深長なこの作品よりも、それに続く、鉛筆一本で描かれた家族たちの肖像画に引き込まれる。祖父、姉、父、母…。いずれも、描き始めは恐らく額のあたりだと思われるが、その線がきわめて、細い。胴体のあたりになると鉛筆の芯を横に傾け、太いラインで表していることもあって、この額の線の細さは際立って見える。画家が丁寧に、生真面目に鉛筆を削って制作に臨んでいた様子が思い浮かぶと同時に、ただならぬ何かを感じずにはいられないのだが、展示を見進めるうち、その「何か」が姿を見せた。画家は修業時代に次々と姉、祖母、弟、母を亡くし、自身も病の恐怖にさらされ、命の儚さを否応なく胸に刻んでいた。はかない「生」への畏敬の念が、画家に繊細だが迷いのないタッチで人々を、そして後に花々や昆虫たち、自然界の隣人たちを描かせていったのだった。
 エルンスト・クライドルフは1856年、スイスのベルンに生まれた。祖父の農場の跡を継ぐはずだったが絵の才能を見いだされ、リトグラフ職人に弟子入りし、ミュンヘン美術アカデミーで学ぶ。しかし体調を崩し、アルプスで療養中、大自然の美しさに改めて開眼。ある日、可憐なプリムラ(サクラソウ)を見かけてつい手折ってしまったクライドルフは、そのことを後悔しつつ、「この花の命を今、描きとめておこう」と筆をとる。これがきっかけとなり、最初の絵本『花のメルヘン』(1898年)へと発展してゆく。
 野菜市場で試食をしまくるバッタ。よい子にはご褒美を、悪い子には罰を与えるアザミ。麦畑でのネズミと猫の追いかけっこに翻弄される昼顔や勿忘草…。『花のメルヘン』において、クライドルフは植物や昆虫を擬人化したが、現代、様々に商品化されている有名な動物キャラクターたちとは異なり、それぞれの動植物の生態や特徴に基づいた人格を与え、自然を尊重した。人間世界の小さな情景を、動植物の姿と自ら書き添えた詩を通して表現。1年の歳月をかけ、16枚の水彩画の原画を150枚ものリトグラフの石版に起こした渾身のデビュー作は、当時まだ「子供を従順にしつける」ことを目的に作られることの多かった絵本の世界では革命的と評され、クライドルフは一躍、絵本作家として名を馳せた。大判で行程に手間がかかるため、彼の作品は比較的高価で大ベストセラーになることはなかったそうだが、それでもこんにち、クライドルフの絵本はスイスでは『くまのぷーさん』や『みつばちマーヤ』と並んで、誰でも一度は読んだことがある絵本だという。日本ならさしずめ、『ぐりとぐら』的存在だろうか。
 日本でも何冊かが翻訳出版されているが、その一冊『バッタさんのきせつ』の中に、「しあわせの女神」題されたページがある。幸運と不運を行き当たりばったりに配分するローマの女神、フォルトゥーナとそれを追う人間たちが、バッタの姿を借りて描かれている。それぞれに球体の上に乗っているが、「ひとびと」役のバッタは女神を追うことにかまけて球の上でバランスを崩しかけ、虹色の球の上に乗った女神役のバッタは気まぐれに彼らに振り向きながら遠ざかる。クライドルフならではのか細いラインが、人生の不安定さ、幸運の儚さというモチーフにぴたりと合い、余韻を残す。人生を俯瞰でとらえ、描き続けた彼らしい一ページである。
 子どもに何かを強制するわけでも、迎合するわけでもなく、身近な自然モチーフを通して人間界のありようを描いた絵本は、スイスでは大人子どもを問わず愛されてきたという。プレスプレビューでギャラリートークを行ったクライドルフ財団のシュタルク理事は「大人になってから見返してみると、単に美しいというばかりでなく、様々な発見がある。そこが(彼の作品の)魅力なのです」と語っていた。我が家の2歳の娘にも、こういう絵本と出会って欲しいと思いながら展示室を出ると、ミュージアムショップに原書が数冊、置かれていた。せっかくだから1冊、買って行こうかと思いながら手に取ってみると、値札に7000円近い価格が記されている。我が家では絵本はすぐぼろぼろになってしまうことを考えると、残念だがまだ時期尚早のようだ。一緒に、ゆっくり絵柄と言葉を楽しめるようになるまで、あと何年だろう。そんなことを思いながら、手にした絵本をそっともとの場所に戻した。

2012年4月12日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感「小説と芝居をゆきかう愉しみ」(2012.2.2 「下谷万年町物語」Bunkamuraシアターコクーン、2.10「金閣寺」赤坂ACTシアター)

『下谷万年町物語』左から藤原竜也、宮沢りえ、西島隆弘
撮影:細野晋司 写真提供:Bunkamuraシアターコクーン

 文学と演劇にはそれぞれに魅力があるけれど、同じ素材を舞台で観、本で噛みしめる楽しさはまた格別だ。久々にそんな体験をさせてくれる作品に、立て続けに出会った。

 1本目は『下谷万年町物語』。原作は唐十郎の自伝的小説(81年、中央公論社刊)で、少年の「僕」が経験した忘れえぬ日々を描く。
今はもう地図上にその名もとどめていない浅草・下谷万年町。戦後間もない昭和23年の当時、そこには娼婦ならぬ娼「夫」や麻薬売人、中毒者がひしめき、誰かの家からしじゅうタンゴの音色が聞こえていた。ある日、僕は場末の劇場で小道具の花を作っている「洋ちゃん」と、瓢箪池に身投げした長い髪の女を助ける。女はその名を「キティ瓢田」といい、相棒の演出家と一座を立ち上げたとたん東京大空襲で彼とはぐれ、その時以来、死んでいるような心持なのだという。相棒と名が同じ「洋ちゃん」と出会ったことで、キティは舞台への情熱を思い出し、彼の一座で舞台に立つ日を夢見始める…。
 誰もがむき出しの魂をぶつけあって生きる下谷万年町では、人々の行動は突拍子もなく、次に何が起こるか予測がつかない。混沌とした世界を探るように読んでゆくうち、キティのせつなく、過剰なまでの舞台愛が物語の軸として浮かび上がる。彼女は無事、「初日」を迎えることができるのだろうか…。
 はらはらしながら、淡々としているようで詩的な文章を加速度的に読み進めてゆくと、最終頁、失われた日々への思いが凝縮された、胸締め付けられるような一文が待っている…という一冊である。
 舞台版は81年の初演、今回とも蜷川幸雄の演出。初演は100人の娼夫を舞台に出して壮観だったそうだが、今回は登場人物を半減。その分、自然と中心的なキティ(宮沢りえ)、洋ちゃん(藤原竜也)、「僕」(AAAの西島隆弘)に目がゆく。舞台前方に本水を引いた瓢箪池に、臆さず、勢いよくダイブしてゆく彼ら。奇想天外な劇世界にもリアリティを持たせる、説得力ある藤原のセリフ、歌手とは思えないほどツボを心得た西島の演技も素晴らしいが、圧巻はやはり宮沢だ。
 筆者が観たのは千秋楽近くということもあってか、はじめ「本当に彼女?」と疑ってしまったほど、喉をつぶし嗄れはてた声でなお叫び、歌う。「僕」をおぶって奇妙な二人羽織ダンスを踊りもする。この声、そして2階席からはよけいにか細く見えるその肢体が、見果てぬ夢に猪突猛進するキティの「痛さ」にオーバーラップ。厚い岩盤を突き抜けるドリルのように、物語は笑いや暴力や死や悲しみを巻き込みながらつき進み、やがて最後の最後に小さな奇跡へとたどり着く。小説では「僕」の切ない夢でしかなかった光景が、ここでは実際にあらわれ、恍惚の中で幕が下りるのだ。ジョイスの『ユリシーズ』もそうだが、紆余曲折の物語の後にヒロインが発する肯定的なひとことには、なんと包容力があることか。こういうセリフを与えられた宮沢は、女優冥利につきるというものだろう。「僕」ならずとも幸福感に包まれるエンディングである。 

もう一本は三島由紀夫の『金閣寺』(1956年『新潮』誌連載開始)。昭和25年に起きた、金閣寺の放火事件がベースとなっている。
吃音に生まれつき、生を呪い、美というものに拘泥しながら生きてきた21歳の学僧、溝口。彼の破滅に至る心情は丹念に言語化され、三島作品の中でも一、二を争う傑作との評価が、国内外で確立されている。筆者もそうだが、学生時代に課題図書として読んだ人も多いと思う。
これだけのベストセラーともなると、原作への思い入れひとかたならぬ観客も多いことだろう。「舞台化など可能なのか?」と批判的に舞台に向き合った人も一人、二人ではないかもしれない。が、筆者が観た折、1幕が終わって場内が明るくなると、後列からこんな声が聞こえてきた。
「原作に忠実だね」「意外にね」。
 大学生だろうか。若い声の男女は、あのくだりも、この部分も「ちゃんと(芝居で)やって(表現されて)いる」と確認するように感想を言い合っていた。
 確かに、はじめに目に飛び込んでくるステージの印象からすると、物語が始まってからの芝居は「意外」だ。
 舞台は、だだっ広くがらんどうの、教室のような空間。コンテンポラリーダンスのセットのような無機質なスペースは、現代的で、『金閣寺』の作品世界からは程遠い印象がある。シェイクスピアなどの古典で起こりがちな、斬新さを追求するあまり観客がついていけない趣向の演出が始まるのか、という不安がよぎる。しかし、一人二人現れた俳優たちが朗読を始め、それが芝居に移行してゆくと、丹念に、こまやかに小説のエピソードがつむがれてゆき、観客はひとまず原典への忠実さに安堵する。面白いのはそのビジュアル表現で、場面が切り替わるたびにアンサンブル(大駱駝艦)の役者たちが机や椅子を流れるような動きで繋ぎ、重ね、たちどころに山道や高台を生み出してゆく。のみならず彼らが周辺で舞踏のエッセンスも入れつつ動くことで、それらは「生きたセット」として機能するのである。(主人公を挑発する「悪友」、柏木が性体験を語る場面で、テーブルの下で彼らがうごめくシーンのエロティシズムといったら!) このイマジネイティブな演出(宮本亜門)が、観念と現実の間を行き交う主人公の表現には意外なほど、しっくりきている。
原作に「忠実」ではないが、舞台においてはこれでいいのだろうと思われる個所もある。例えば、足の悪い柏木に借金の返済を迫られた溝口が、意地悪く何度も小走りで逃げては止まるシーン。原作では溝口は黙ったまま柏木に対峙し、転がってきたボールを拾うのに柏木がどう足を動かすのか凝視している…という場面だが、これをそのまま舞台でやっても、観客にはその意味が分かりにくい。二人を舞台の隅々にまで走らせる今回の演出では、溝口の醜い優越感と口では不敵なことばかり言う柏木のぶざまな側面が鮮やかに浮かび上がる。
 三島が小説で採用していた、一人称の「告白」という文体はどうなるのかと思ったら、溝口が舞台上で演じている間、その心情は他の俳優が語るという、人形浄瑠璃のような手法であらわされている。次第に、このナレーションが悪友の柏木、そして学僧仲間で溝口が羨望を抱く鶴川の声であることがうかがえ、終幕にこの3人が並列するに至って、宮本亜門がこの舞台を、溝口一人の個人的な物語でなく、若者、そしてかつて若者であった人々の、普遍的な「青春の苦悩」の物語として表現してきたことが明確になる。主人公は舞台を「去ってゆく」のではなく、舞台から降りてきて、客席の一つに腰を下ろす。溝口は遠い、舞台の中の人ではなく、「one of us」であったのだ。
小説における溝口は、饒舌ともいえるほど自身の内面をつまびらかに言語化している点において、時に「悩み」や「呪い」が不似合に見える瞬間がなきにしもあらずなのだが、この役を演じた森田剛は、溝口の朴訥な台詞回しが完全に体になじんでいるのみならず、青春特有のもやもやとした鬱屈を全身で表現しており、実は小説版の溝口はその内面を書き(語り)尽くしていなかったのだと気づかせる。柏木独特の哲学をすらすらと語り、痛快ささえ漂わせる高岡蒼甫、まばゆい光を放つイノセントな鶴川を、小細工せずに演じる大東俊介ともども、役とぴたりと一体化していたのは、再演(初演は20111月)ならではのアドバンテージだろうか。
芝居の結びは溝口の台詞、「生きよう」。その言葉は溝口が自らに言い聞かせているだけではなく、この芝居が観客に、世に向かって放つメッセージのようにも聞こえる。大震災を経た今は、ことさらに。宮本亜門の様々な演出作品の中でも、彼らしい(と、以前取材で2度お会いした印象からそう思う)、人間に対する肯定(、愛情)に満ちた舞台である。 

小説を、読む。
そこに描かれた世界が人間の肉体をもってあらわされるさまを、観る。
 観劇後、原典に戻って今度は一語、一語を噛みしめながら読んでみる。
 大勢の人々がかかわった舞台を観た後では、原典への理解は(願わくば)より深まりもし、多様にもなる。
 こういう機会を与えてくれた二本の舞台に、多謝。

2012年3月22日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感「ティム・ライスの幻のミュージカル『チェス』が本邦初登場」(2012.1.26 「Chess in Concert」青山劇場)

「Chess in Concert」右から安蘭けい、石井一孝、大野幸人
撮影:村尾昌美 写真提供:梅田芸術劇場

 ミュージカル『チェス』が本邦初上演されると聞き、96年3月、作者のティム・ライスとUKツアー中の舞台を観たことを思い出した。
 ティム…本当はSir Timと呼ぶべきだが、ご本人は「普通にティムって呼んでよ」と言っていたのでここではそう書かせていただく…とは、筆者が大学の卒論で彼の初期作『Jesus Christ Superstar』を取り上げ、インタビューをさせてもらって以来の縁。その時も「今度、ロンドンに出張します」と連絡すると、「ちょうど『チェス』の10周年記念ツアーが始まったから、一緒に観よう」という話になったのだった。
ロンドンから電車で小一時間。ケント州のDartford駅で降り、既に夕闇に包まれた町をファックスされた地図を手に歩くと、すぐにガラス張りのロビーから白い光を放つOrchard Theatreが見つかった。エントランスに足を踏み入れると、ひときわ長身で人懐こい笑顔のティムと連れの女性、そして秘書のアイリーンに迎えられ、客席へ。筆者の隣に座るなり、ティムの連れの女性が「ここ、寒くない?」とパンプスを脱ぎ、細長い足をスカートの中に折りたたんでシートの上に横座りになった。「あたし、冷え症だから応えるのよね。あなたも冷え症?」 まだ学生といってもいいような若い女の子の、おばちゃん然とした口調がそこはかとなくおかしい。幕間に「彼女、どなた?」とアイリーンに尋ねると、「さっき言わなかったかしら?ティムのお友達よ。」ということだった。

Jesus Christ Superstar』『Evita』といったロイド=ウェバーとのコンビ作、『ライオンキング』をはじめとするディズニー作品でミュージカル界のトップに君臨するティム・ライスの作だというのに、『チェス』はこれまで日本で上演されたことがないばかりか、長らく試行錯誤が繰り返された珍しい作品である。
 アバのベニー・アンダーソン、ビョルン・ウルヴァースを作曲者に迎え、米ソ冷戦時代の男女の愛をプログレッシブ・ロックはじめ多彩な音楽で描いた本作は、『Jesus Christ Superstar』『Evita』同様、「レコード→コンサート版→ミュージカルとしてのフルステージ版」という過程を経てきた。84年にアルバムがリリースされると、シングルカットされた「I know him so well」はイギリスで4週連続ヒットチャートの1位に輝き、ラップ風の「One night in Bangkok」もアメリカで3位という幸先のいいスタートを切った。ヒット曲をひっさげたコンサートツアーはまずまず好評、演出家マイケル・ベネット(『コーラスライン』)の病気降板という不運を乗り越え、代打トレバー・ナン演出のフルステージ版も86年、ロンドンで無事開幕する。が、オリジナルに大幅に手を入れた88年のブロードウェイ版は酷評され、2か月あまりで閉幕。以降も上演の度に、本作の演出・構成は微妙に変化している。『オペラ座の怪人』以降、多くのミュージカルで採用されている「オリジナル演出での上演」が本作には条件として付帯していないのだろうが、それにしてもこれほど「定型」の無い作品はミュージカル史上、無いのではないかと思う。その背景には、この作品が本質的に抱える「ちょっと難しい部分」が、ある。

アルバム版の「あらすじ」が6ページにもわたるほど、本作のストーリーは入り組んでいるが、その核となっているのは「チェスの国際試合を舞台とした男女の出会いと別れ」「国家対個人」という二つのテーマである。ヒロインのフローレンスは幼少期、動乱に揺れる故郷ハンガリーを脱し、英国へ移住。今回、試合に出場する「アメリカ人」のセコンドを務め、その恋人でもあるのだが、彼の身勝手さに愛想を尽かしていた。そんな折に対戦相手である「ロシア人」と二人きりで話すことになり、思いがけず恋に落ちる。亡命し、フローレンスと暮らし始めた「ロシア人」は翌年の国際試合にも出場するが、その背後では、アメリカとソビエトの国家の威信をかけた策略が渦巻く…。
 フローレンスと「ロシア人」との恋愛には一見、何の問題もなさそうだが、実は「ロシア人」のほうは妻子持ち。フローレンスとは要するに「不倫」ということになる。「ロシア人」の妻に特に落ち度と呼ぶべきほどの非は見当たらず、主人公たち、とくに「ロシア人」に感情移入できるかどうかは、観客の感性や道徳観によって大きく変わってくるのが、本作の弱みの一つ。中世の昔から貴族階級では政略結婚が珍しくなく、「恋愛」は婚外でするもの、という感覚が芸術にも多大な影響を与えたヨーロッパならいざ知らず、よりキリスト教的モラルに立脚したアメリカ社会で受け入れられるよう、トレバー・ナンが手を入れたくなったのも分からなくはない。
 だがナンは、「国家対個人」のテーマを強調しようとしたのか、セリフを大量に挿入。物語設定や曲順も入れ替わり、2幕頭を華々しく飾っていた「One night in Bangkok」は1幕途中に移動してしまった。アルバム版では1時間半だった内容は3時間15分に膨れ上がり、観客にとっては重厚というより、重さばかりが感じられる舞台となってしまったようだ。
 これを反面教師としてか(?)、以後のプロダクションはブロードウェイ版以前の形をベースとしつつ、それぞれに工夫。筆者が96年に観たUKツアー版も、86年のウェストエンド版をベースに一部ブロードウェイ版の曲順を取り入れた構成だった。シリアスなテーマを掘り下げるというより音楽的な楽しみを大切にした公演で、セットもシンプル。当時すでにスタンダード化していた「I know him so well」などの演奏が始まるたび、客席で「じわ」が起こったのが印象的だった。

ティム自身が「決定版」と評しているのは、2008年のロンドン、ロイヤルアルバートホールでのコンサート版。ブロードウェイ・スターのアダム・パスカル(『Rent』)、イディナ・メンデス(Wicked)、ポップ・スターのジョシュ・グローバンがそれぞれフレディ(「アメリカ人」)、フローレンス、アナトリー(「ロシア人」)を務め、ロンドン・フィルと100人のコーラス、ダンサーたちがステージを埋め尽くした。大規模なコンサートの演出には定評のあるヒュー・ウルドリッジとティムは物語を整理しなおし、「自由に生きるということ」という大きなテーマの中に「恋愛」の要素を包括。これに主役3人の熱唱がはまり、それぞれの苦悩が見事に浮かび上がった。はじめに舞台に上がったティムが「やっとあるべきかたちになりましたよ」と挨拶し、笑いを誘っていたが、それだけ彼にとって本作は愛着の強い「不遇の子」だったのだろう。

さて、今回の日本版である。
 コンサート版とあって、舞台にはバンドが上がり、下手側中央寄りには今回、音楽監督を務める島健のピアノ。中央のアクティングスペースは広いとは言えないが、主人公たちが歌い、その周りで変化自在の6人のアンサンブルが各場面を盛り上げるのには十分だ。
 冒頭、クラウンのような扮装の謎めいたキャラクター(「チェスの精」大野幸人)が無言で踊り始める。つづいて、日本版『エリザベート』のトートを髣髴とさせる長髪ウィッグ美形青年(「アービター=審判」浦井健治)が、「Story of Chess」を歌いながら登場。「なになに」と観客に身を乗り出させる(演出・荻田浩一)主人公3人を務めるのは安蘭けい(フローレンス)、中川晃教(フレディ)、石井一孝(アナトリー)。大人の女性を演じられる数少ない若手スターの安蘭は、不安定な状況下で強く生き抜くヒロインを安定した歌唱力で体現し、のびやかな声の持ち主、中川は暗い過去を抱える天才チェスプレイヤーのナンバーを時に軽快に、時に激しく歌い上げてそれぞれに適役。が、今回特に絶妙だったのはアナトリーのキャスティングだろう。妻子も故郷も捨てて新たな恋に走る彼の心理は、歌詞では説明しつくされておらず、共感を寄せやすいとは言えない。08年のロンドンコンサート版では、陰影のある稀有な声で歌詞の一言一句に深みや説得力を与える歌手、ジョシュ・グローバンがこの難役を引き受け、一見、身勝手な彼の内なる葛藤を描き出すことに成功していたが、今回の日本版では、『ミス・サイゴン』のクリスなど誠実な青年がニンの石井が挑戦。彼ならではのあたたかな声が、フローレンスという「運命の人」に出会い、一気に「自由」への逃避願望が噴き出てくるのを抑えられない姿に真実味を滲ませた。
全編を通して、政治的な側面よりフローレンスとアナトリー、フレディの三角関係に重きを置いた演出だったが、冷戦がしごく身近なテーマとは言いがたい日本人にとっては、このほうがわかりやすい。結局アナトリーはフローレンスの行方不明の父を救うために彼女と別れ、故郷へ帰ってゆくのだが、海外版ではこの後たいてい、この犠牲的な行為が全くの無駄だったというどんでん返しがつく。改めて国家の非情さを強調、という意図なのだろう。『Jesus Christ Superstar』にしても『Evita』にしても、個人の物語をどこか冷めた目で俯瞰してきたティム・ライスらしい。対して今回の日本版は、二人の別れのナンバー「You and I」の余韻のうちに幕となる。この曲の結びが歌詞(But we go on pretending … stories like ours have happy endings…訳詞は「言い聞かせあう 美しい別れだと…」)的にもメロディ的にも切なさに満ちていて、安蘭、石井もしっとり情感を込めて歌っていた分、今回はその余韻に冷水を浴びせるようなセリフなど加えず、そのまま終わる形で良かったと感じられた。

そういえば、96年にOrchard Theatreで一緒に本作を見た「ティムの友達」はその後、「ティムの二番目の奥様」となった。
ヒロインが恋に落ちてからも「いつかは(最初の妻のように)彼に去られる」と意識していて、実際別れることになってしまうミュージカルを、あの時、彼女は心中、どんな思いで見ていたのかしら。
 ただただ気さくで快活な女の子に見えたけれど、きっとフローレンスのような芯の強さを持った女性なのだろう。
 そんなことをふと、思ったりする。






2012年2月9日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感「稀有な劇場で聴く渾身、ほっこりライヴ」(2012.1.28「中西俊博コンサートReel’s Tripはじめてのひかり」青山円形劇場)

「中西俊博コンサート Reel's Trip はじめてのひかり」写真提供:青山円形劇場
 演劇ファンにも演じ手たちにも、青山円形劇場は稀有な劇場(こや)だ。
 舞台は円形。これを、最多時で376の客席が、緩やかなすり鉢状に取り囲む。どの席からも演じ手の顔がはっきりと見え、裁判やボクシングの試合さながらの、臨場感あふれる芝居を体験できる。上演中、舞台の向こうの薄闇の中に反対側の観客が浮かび上がり、鏡を見ているような不思議な感覚を味わえるのも、ここならではだ。いっぽうの演じる側は、通常の舞台なら正面、あるいは斜め横からの視線しか受けないが、ここでは四方八方から注視され、全身くまなく観客の目にさらすとあって、独特の緊張(あるいは快感?)を覚えるのではないだろうか。かつてここで観た「THE・ガジラ」の芝居の、むき出しの魂の衝突。篠井英介版『欲望という電車』の、痛々しさ。遊◎機械「ア・ラ・カルト」の、さりげなくも幸福感に満ちた老夫婦の食事シーン…いずれもこの劇場でなかったら、何年も経った今に至るまで、心に残ってはいなかったかもしれない。
さてこの劇場、演劇のみならず音楽のライブにも実にいい、と今回、中西俊博のコンサートを通して知った。
演劇ファンにとっては、前出の「ア・ラ・カルト」で楽しげにヴァイオリンを奏でていたあの人、としてお馴染みの中西だが、音楽の世界ではヴァイオリニスト、作曲家、編曲家、音楽監督として、ポップスから演歌まで幅広いアーティストと交流し、様々な作品で活躍する多才の人。円形劇場でのコンサートは1998年から続いていて、ここ数年は自ら見つけ出した気鋭の若手ミュージシャンたちと「Reel’s Trip」というバンドを組み、行っているという。
開演前、プログラムを開くと序盤の演奏曲に「Reel Around the Sun」「American Wake」とあり、目が留まった。
アイリッシュ・ダンスを世界的に広めたショー『リバーダンス』の代表的なこの2曲、アイルランド文化が専門の一つである筆者にとっては、何百回聴いたか分からないナンバーだ。前者のタイトルにある「Reel」は、一般的には「リール」「糸巻」の意だが、アイルランド音楽で特徴的な、車輪の回転を想起させる4拍子の曲のことでもある。(中西のバンド名も、これに由来するのかもしれない。) ショーが一世を風靡したことで、これまでにも様々なアーティスト、楽団が取り上げているが、なかなかサントラ盤の完成度に勝るものはなかったような気がする。
だがReel’s Trip版の演奏は、一味違った。オリジナル版の序奏部分が「日の出」を思わせる静けさなのに対して、パーカッションとギターの雷鳴とどろくような音を響かせ、場内を一瞬にして「宇宙の創生」さながらのイメージで包み込む。「こどもの城」内の劇場で演奏するにはちょっと怖すぎるかもしれない(?)おどろおどろしいアレンジだが、作曲者のBill Whelanも目を見開きそうな、オリジナリティ溢れるヴァージョンだ。紅一点のパーカッショニスト、はたけやま裕が曲調の変化に応じて淡々と、無駄のない動きでドラム、ボウロン(アイルランドの片面太鼓)と次々に楽器を変えてゆく。後半の「American Wake」は原曲に近いアレンジ。躍動感あふれるダンスナンバーで、オリジナル版の舞姫、ジーン・バトラーが現れて飛び入り参加してくれないかな、などと夢想してしまう。ヴァイオリニスト(ここではアイルランド流にフィドラーというべきか)にとっては超絶技巧が試される曲だが、楽器の周りをすり抜け、客席に微笑みかけながら(3メートルと離れていないので自然と目があい、こちらも笑顔になってしまう)、急ピッチでメロディを奏でる中西が実に楽しそうだ。客席では体を揺らして拍子をとる人もいれば、腕組みをして瞑想風に聴き入っている人もいる。めいめい勝手に楽しんでいる感じがいい。
この後、しばし中西によるオリジナル曲を演奏。若いころ、レコード会社の「こういう傾向が売れるよ」という助言に従って書いたという、彼曰く「健康的な」4曲などが披露されるが、アレンジによるのか、初めて聴く身には十分にかみごたえがあり、いわゆるBGM的な「軽さ」はない。休憩を挟んで二部が始まると、中西とピアニストの伊賀拓郎が現れ、お喋りを交えながら即興で『Sound of Music』の「My favourite things」をセッションした。「しめくくりはクラシック風にね」という打ち合わせだけで、ぴったりと息の合う演奏。バンドのふだんの「音遊び」はこんな感じかと想像でき、観ている側も楽しい。その後、席に戻ってきた他のメンバーにも中西が一人ひとり話題をふり、それぞれの人となりが少しずつ覗く。再びオリジナル曲やピアソラの「リベルタンゴ」 を経て、コンサートは佳境へ。中西が、本公演のタイトルを「はじめてのひかり」とした次第を話しはじめた。昨年の震災後、チャリティ公演を開いた彼だが、コンサート自体は成功したものの、ふと自分自身に対してひっかかりを覚えたという。被災地への支援の心が出発点でも、演奏を始めるとどうしても曲の中に入り込んでしまい、音の美しさを追求したり、楽しんでしまう。演奏が終わって我に返り、「これでいいのか」と思う。そんな迷いを抱えつつ、今の気分として「光を見たい」という思いから、このタイトルを選んだのだという。こうして、本公演の核であるオリジナル曲「ビッグバン」「最初の光」「エピソード」の演奏が始まった。「Reel around the Sun」同様、この世に光が生まれ、大地が創生されてゆくかのようなストーリー性のある音楽に、中西、伊賀、はたけやまにギターのファルコン、ベースの木村将之が時に重く、時に軽やかに、自由自在に音を色づけてゆく。聴いていて、遠大な旅に出ているような気分になる。
アンコールの「アヴェマリア」まで、2時間半弱。ポップスからオリジナル、ロックまで幅広い音楽が、表情豊かに彩られただけでなく、親しみを感じられる出演者たちと小空間で時を共有する喜びも加わり、「おなかいっぱい」の満足感を得られるコンサートだった。
ところで中西が吐露した迷いについて、筆者は「それでいいのでは?」と思う。演劇に置き換えると、例えばある役者がチャリティ公演で「ロミオとジュリエット」のロミオを演じたとする。彼が出演を決めた動機はチャリティの心だったとしても、役を演じている間もそのことを意識されていては、芝居が別の方向に行ってしまう。「ロミオとジュリエット」という芝居が成立するのに、彼には全身全霊でロミオを演じてもらわないと困るのだ。これと同じで、中西も演奏中は100%音楽に入り込み、その曲の美を追求してほしい。それに聴衆が感銘を受け、対価(入場料)を払って良かったと思えることが、チャリティであろうとなかろうと、その公演の開催意義であり、「音・楽」というものではないか…と思う。