2011年12月30日金曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「演劇という、幸福な共同作業」(2011.12.3 『みんな我が子』新国立劇場小劇場)


「みんな我が子」(左から)麻美れい、長塚京三。写真提供・梅田芸術劇場
  「いいなあ、この一座」。
そんなふうに、羨ましさを覚える舞台が、たまにある。
例えば「いい舞台」を観れば充実感で気分が高揚するし、「一座が家族のように仲が良さそうな舞台」を観れば嬉しさを覚える。
けれど今回の「みんな我が子」には、「もしも自分もこの一座に身を置いていたら、とびきり刺激的な体験ができたかもしれない」などと、羨望にも似た空想をしてしまった。それほど、クリエイティブな《気》が満ちた舞台だった。

素材である『みんな我が子』は1947年、作者のアーサー・ミラーにトニー賞をもたらした戯曲だが、日本ではそうなじみのある作品ではない。
第二次世界大戦終了後のアメリカ中西部を舞台に、戦中に財をなしたとある一家の「秘密」と、それが暴かれたために起こる悲劇を描く。一つのホームドラマとして始まりながら、後半「社会対個人」「資本主義対理想主義」「アメリカの欺瞞」の物語へと、急激にスケールアップしてゆく鋭い社会批判劇は、初演当時、清濁飲み込んで戦争を生き抜いたアメリカン人たちにとっては、身に覚えがあるとまでは言わなくとも、痛みを感じずには観られない戯曲であっただろう。だが日本の私たちにとっては、いかんせん「アメリカ中西部」「1947年」は私たちには遠く、アメリカ人が当時抱いていた戦後の「気分」も分かりにくい。本作を日本で上演しても、遠い世界の出来事として目の前を流れていってしまう可能性が大きいことが、上演回数が多くない理由なのだと容易に想像がつく。
それにもかかわらず、今回の舞台は前半は淡々とホームドラマを見せ、後半一気にドラマティックに展開、はらはらさせつつ、最後の台詞まで観客をくぎ付けにする。出演者たちが自分の芝居に溺れることなく、作品の全体像、その中での自分の立ち位置を把握し、一つ一つの台詞を発しているので、それぞれの表現が分かりやすい。饒舌な翻訳劇にありがちな、「思いもしない言葉を言わされている」「日本人の習慣にはないけれど台本に書かれているのでこうしている」という瞬間がないのも、いい。これは相当、濃密な稽古を積み重ねていったのだろう…。そう思いながら観ていたら、終演後のアフタートークで、まさにその話題が出ていた。
今回、演出を手掛けたのは新進演出家のダニエル・カトナー、33歳。「オペラ座の怪人」で知られるハロルド・プリンスの一番弟子、ということだが、ブロードウェイではまだ自身の代表作はなく、「新人」と言っていい。アフタートークでは劇中、一家のナイーブな次男役を熱演した田島優成が司会を勤め、カトナーへの全幅の信頼を滲ませながら、彼の言葉を引き出していた。「演出にあたって、あなたが始めに『今日まで3か月間この台本と寝食を共にして準備してきたけれど、僕の描いた像を押し付けるつもりはありません』と言ってくれたのが印象的でした」「演出家の考えだからこう動く、ということはしてほしくないんです。役者さんたちには、自分でリアルに感じながら演じてほしい。芝居を絵画に例えると、稽古前に輪郭を描いておくのが僕の役目。色彩は稽古が始まってから入れてゆきます」「ハロルド・プリンスさんからはどんなことを学ばれたんですか?」「準備の大切さですね。演出する戯曲をいただいたら、すべての方向から研究します。今回で言えば、第二次世界大戦、アメリカ中西部、登場人物の職業、軍隊などについて、リサーチを積み重ねました。役者さんに質問されて、答えられないことがあってはまずいですから()」。他の仕事同様、演出は一つの「職業」なので…というコメントからも、この人の生真面目さ、勤勉さが覗く。といっても真面目一本やりというわけでもなく、最期には田島に促される形で、出演者の物まねを披露していた。
この演出家のもと、一座は熱い議論を交わしながら、緻密に芝居を組み立てて行ったのだという。プログラムの中でも、一家の大黒柱を演じた長塚京三は「一緒に勉強しているようで、学生劇団みたい。この感じ、好きなんだ」、その妻を演じた麻美れいも「(カトナーは)決してあきらめないし、物作りに対する姿勢が前向きで、いい」と語っていて、田島のみならず全員が迷いなくカトナーに身を委ね、丁寧に稽古を重ねていったらしい。(どんなにか、熱気あふれる現場だったろう!) その結果、舞台はストーリーテリングに終始せず、出演者の一人ひとりが光を放ち、好感を抱かせる。「たたき上げの成金・工場経営者」役は長塚には本来、不似合な役のはずだが、「子どもには自分以上の生活をさせたいと願う親世代への鎮魂歌という意味を持たせたい」「(難解な作品を苦しみながらも楽しむという)、『品の良さ』がこの作品にはある」という意識を持って演じたそうで、役に彼ならではの知性を加え、終盤、どうにも自身を正当化することができず、破滅してゆく過程の悲劇味を倍増させた。麻美れいも、これまで演じた『オイディプス王』や『双頭の鷲』の王女など浮世離れした役の印象が強く、アメリカの地方の一主婦役というのが最初は不思議に感じられただが、芝居の全体像が見えるにつれ、この舞台には彼女が持つスケール感が必要だったのだと納得。芝居を締める最後の台詞も、麻美が発することで「絶望の果ての希望」を含ませ、印象深いものにしていた。次男の恋人で、家長を追い詰めることになる真実を知らせる娘役は、自分の恋のためなら他がどうなってもいいという女心がいやらしく見えるリスクのある役だが、可憐でさっぱりとした持ち味の朝海ひかるが演じると、一途な娘の健気な行動に見える。その兄で、舞台後半をかき回し、不意に去ってゆく青年役の柄本佑も、一家に対しての怒りだけでなく、次男に対するコンプレックスを秘めているようで、去った後も余韻を残す。隆大介演じる、夢をあきらめきれない医師と、山下容莉枝演じる、夫を現実に向き合わせようと必死のその妻、加治将樹、浜崎茜演じる、ブルーカラーながら子宝に恵まれ幸福そうなカップルといった、一家の隣人たちの存在にもリアリティがあり、「遠い物語」を現代日本の観客に引き寄せていた。

ところで、本作のタイトルは『All My Sons』だが、邦題は『みんな我が子』。どこかで聞いたようなフレーズだ。作品解説には、旧約聖書がインスピレーションとあったが、もっと身近に聞いているような気もしないでもない。
…と考えていて、ふと思い出した。なんのことはない、筆者が参加している子育てママサークルでの、合言葉だ。サークル活動では、子ども同伴。まだしつけも始まらない乳児たちは、ママの目を盗んで(?)は他の赤ちゃんのおもちゃで遊んだり、ママたちの荷物を逆さまにしたり、体の上に乗ってきたりと、予測不可能の行動をする。けれど何があっても「みんな我が子」の精神で、お互いおおらかに接し、慈しみあおう、とサークルでは言い合っている。
劇中でも、この「みんな我が子」というフレーズは、「重さ」の違いはあれ、こうした「人類愛」を訴えるものとして言及されていた。自分、自分の家族だけ良ければいいという考えでは、人は生きては行けない。命あるもの皆、慈しみあってこそ、人の世は成立するのである。
もしかしたらこの、日本では馴染のない社会批判劇を今、ここで上演することになった意図も、こういうところにあったのかもしれない。


2011年12月2日金曜日

Today's Report [Theatre 番外編] 劇場ちらしの誘惑、2011-2012冬。

 劇場に行くと、入場時に近々の公演ちらしの束を渡される。
 開演前に席につき、この束を一枚一枚捲っては、この演目、あの顔合わせに思いを巡らせるのが、演劇ファンの愉しみの一つだ。
 ただ、長年(思えば幼稚園の頃から)芝居に関わっていたりもすると、最近は劇作家と演出家と主演俳優の名前を見ただけでだいたいどんな舞台か想像できてしまい、そうそう「どきどきわくわく」することもないのだが…、1110日、渋谷パルコ劇場(演目は井上芳雄ら出演の『Triangle vol.2』)で渡されたちらし束40枚弱は、珍しく次々にそんなときめきを提供してくれた。この冬、観たい演目の忘備録という意味合いもあって、記しておきたい。

*唐十郎×蜷川幸雄×宮沢りえ、藤原竜也、西島隆弘(AAA)。『下谷万年町物語』(20121Bunkamuraシアターコクーン)
 最も目を引くちらしだ。
 太い筆書きのタイトル。黒地に赤い蝶たちが舞い、中央に男装の宮沢、藤原、西島隆弘の扮装写真。「昭和21年からオカマたちでにぎわい、電蓄から鳴るタンゴの曲で、ハエがとび交う町でした」というキャッチコピー…。唐作品のインパクトの強さが、そのままに表現されている。出演者の中に新宿梁山泊の演出家で、以前NHKのドラマで役者としても魅力的だった金守珍の名がある点でも惹かれる舞台だ。

*野田秀樹×宮沢りえ、池田成志、近藤良平。『The Bee 日本人キャスト版』(20124月東京・水天宮ピット大スタジオ、5月大阪、6月北九州、松本、静岡)
 NHK大河ドラマ『江』で主人公の姉、茶々を演じていた宮沢。正直なところドラマには一年を通して感情移入できなかったが、彼女の演技には目を見はった。過酷な運命に翻弄されつつ自分の芯を見失わずに生きた茶々を、腹からのしっかりとした発声で体現。玉三郎主演舞台から野田秀樹の芝居まで、これまでの様々な舞台経験が見事に生きている、と感じさせた。その彼女が『下谷万年町物語』、本作と再び舞台づいている。コンドルズの近藤良平も面白いことをしてくれそうだ。23月には東京で英国人バージョンの上演もあり、野田さん(昔、担当編集者としてお世話になっていたので親しみをこめて「野田さん」)は演出のみならず、両バージョンに出演もする。

*フランク・ワイルドボーン×濱田めぐみ、田代万里生。『ミュージカルBonnie&Clyde俺たちに明日は無い』(20121月青山劇場)
 日本発の見応えある新作ミュージカル『MITSUKO』で手堅い作曲を披露したワイルドボーンの最新作を、劇団四季を退団した濱田と、『マルグリット』で彗星のように現れた逸材、田代が演じる。濱田は『ライオンキング』のナラ、『アイーダ』のタイトルロール、『ウィキッド』のエルファバと、中声域でパワフルな歌唱力を求められるヒロインを次々にものにしてきた稀有な女優。いっぽう田代は安定感のあるテノールで、一見王子様系のルックスながら『マルグリット』では骨太なオーラを発していた。この二人が、今回はジャズ風味たっぷりというワイルドボーンの曲をどう歌いこなすだろう。

*井上ひさし×長塚圭史×北村有起哉。こまつ座『十一ぴきのネコ』(20121月紀伊國屋サザンシアター)
 キャッチコピーに「子どもとその付添いのためのミュージカル」とある。井上が執筆時に掲げた言葉だろうか。井上ひさしのミュージカル、というと、筆者には子どもの頃に出演した『真夏の夜の夢』が思い出深い。井上が或る児童劇団のために書き下ろしたミュージカルで、現実の中にシェイクスピア作品を入れ子にし、ひねりを加えた冒険物語。台詞は簡明ながら一つ一つが生き生きとして、歌詞も歌っていて面白く、子どもごころにとても楽しかった。本作はその彼が書いた「子どものためのミュージカル」というので、我が子の観劇デビューにどうかな?と思いながらちらしをよく見たところ、対象は小学生以上。1歳の娘にはまだ早かった。…が、キャストに北村有起哉、ラッパ屋の木村靖次、新感線の粟根まことら。演出家に長塚、と個性派の名前が連なっていて、とうてい「無難な舞台」には収まりそうもない。今回は「付添い」だけで観に行くか。

*佐藤健×石原さとみ×ジョナサン・マンビィ『ロミオ&ジュリエット』(20125月赤坂ACTシアター、大阪イオン化粧品シアターBRAVA!
 「旬」の若手俳優が体当たりで演じると、得難いきらめきを放つ『ロミ・ジュリ』。今回はブラウン管での活躍めざましい佐藤健が、初舞台でこの演目に挑戦する。ジュリエットに石原さとみ、そのほかの共演陣も橋本さとし、長谷川初範、石野真子、キムラ緑子と「観てみたい」キャストだし、なによりロンドンで刺激的な舞台を発信し続けるドンマー・ウェアハウス出身の若手演出家、ジョナサン・マンビィが本作で日本初進出というのが興味をそそる。日英の若い才能が互いに遠慮なく、この「初挑戦」で火花を散らしてほしい。

  他にも、
 文学的な、奥行きのある作品で真価を発揮するダンサー首藤康之が、「鶴の恩返し」をモチーフとした新作に挑む日英共同制作のバレエ『鶴』(20123KAAT横浜芸術劇場ホール)。
 田代万里夫と、Triangle vol.2』で芸達者なところを見せていた新納慎也が出演、今年9月の初演が大入りだったという『スリル・ミー』の再演(20123月アトリエフォンテーヌ)。
 宝塚退団後初舞台の『ロコへのバラード』で颯爽と女優デビューを果たした彩吹真央が、ユースケ・サンタマリアほか曲者揃いのキャストに紅一点加わる『モンティ・パイソンのスパマロット』(20121月赤坂ACTシアター)。
 ベルギー、英国など数か国が制作にかかわり、森山未來や書道家の鈴木稲水、中国・少林寺の武僧ら多彩な出演者を、ダンス界の寵児シディ・ラルビ・シェルカウイが束ね、手塚治虫をダンスで表現する『テヅカ』(2012年2Bunkamuraオーチャードホール)などなど、束をめくっていて「おっ」と手を止めさせるちらし、多数。このうち何本観られるだろう。他にもあちこちから情報が舞い込んでくるだろうし…。乳児のいる身としては、スケジュールのやりくりが悩ましい冬となりそうだ。