2011年9月25日日曜日

Today's Report [Film]東京国際映画祭、今年は「グリーンカーペット」の意義もより深く。


特別上映『がんばっぺ フラガール!~フクシマに生きる。彼女たちのいま~』
©2011「がんばっぺ フラガール!」製作委員会

 六本木ヒルズを中心に、東京の秋を様々な映画で彩ってきた「東京国際映画祭」。この10月で24回目を迎えるアジア最大の映画祭概要が、このほど発表された。
 もともと、スターたちが歩くカーペットを「レッド」ではなく「グリーン」とすることに始まり、作品上映をグリーン電力で行ったり地球と人間の共生をテーマとした部門を設立するなど、環境への配慮をアピールしてきた映画祭だが、今年は3月の大震災を受け、課題先進国の日本が地球のために何ができるのか、また「映画祭だからできる」「映画を通じてできる」ことは何なのか、改めて考える映画祭を目指しているという。
自然との共生をテーマとした10本を上映する『natural TIFF』部門に加え、今年は特別上映として、『震災を越えて』部門を特設。ワールド・プレミアとなる『がんばっぺ フラガール! ~フクシマに生きる。彼女たちのいま~』(小林正樹監督)など、被災地のリアルな声を届ける3作品を上映する。 このほか、例年TIFFで行っているグリーン募金の延長として、今年は被災地での上映活動「シネマエール東北」への募金も同時に行い、協力者にはグリーンのリストバンドが配布される予定だ。
『アルバート・ノッブス』右・グレン・クローズ
©Morrison Films / Chrysalis Films 2011
映画祭の華、コンペティション部門も今年は豊作。
前年比17%増の975本のエントリーがあり、このうち選出された15本が「東京サクラ・グランプリ」を競う。60歳の木こり(役所広司)と新人ゾンビ映画監督(小栗旬)が出会い、心を通わせるコメディ『キツツキと雨』(沖田修一監督)をはじめ、問題児揃いの学校で教鞭をとる教師(エイドリアン・ブロディ)を描いた『デタッチメント』(トニー・ケイ監督)、香港ホラーの雄、オキサイド・パン監督の3Dホラー『夢遊 スリープウォーカー』などジャンルも国も多彩な作品が集うが、個人的にはジェイムズ・ジョイスに影響を与えた作家ジョージ・ムーアの短編小説をロドリゴ・マルケス(『彼女を見ればわかること』)が映画化した『アルバート・ノッブス』をまず、観たいところ。女性の社会進出がままならなかった19世紀のアイルランドで、男性と偽り、ホテルで執事として働く女性の、はかない恋物語である。予告を見た限りでは、主人公役グレン・クローズはさすがに声は女性のそれだが、オールバックの髪形でパリッとスーツを着こなした姿は、初老の執事そのもの。コロンビア人のマルケスがアイルランドの有名とは言い難いこの物語のどこに惹かれ、どのように映像化しているか、興味深い。
他にも恒例の「アジアの風」部門、「日本映画・ある視点」部門、「WORLD CINEMA」部門、特別招待部門など魅力的なプログラムが映画祭にはひしめいている。上映スケジュール表とにらめっこしながら鑑賞予定を立てるのが楽しみな9日間である。

「第24回東京国際映画祭」1022日(土)~30日(日)六本木ヒルズ(港区)ほか
http://www.tiff-jp.net/ チケット発売日:108日(土)前売り鑑賞券発売開始
問い合わせ ハローダイヤル(921日~1030日)日本語:035777860005055418600(全日8時~22時) 英語:0354058686(全日9時~18時)

2011年9月24日土曜日

Theatre Essay 観劇雑感「『血沸き肉躍る神話世界』を描き出すオペラ」(METライブビューイング2011.8.17『タウリスのイフィゲニア』2011.9.17『ラインの黄金』)

『ラインの黄金』 (C)2010 The Metropolitan Opera
 世界最高峰の歌劇場、メトロポリタンオペラの舞台を高音質、高画質で映画館上映する「MET(メット)ライブビューイング」が、今年度のシーズン開幕を目前に、過去5年間のレパートリーからアンコール上映を行っている。
今を時めくスター歌手たちが集うMETの舞台は、音楽的にも非の打ちどころのない完成度のものばかりだが、オペラ界のみならずブロードウェイ、映画界など各分野で活躍する演出家たちが招かれ、創造的、時にセンセーショナルな演出で上演されることでも有名だ。今回のアンコール上映でも、ミュージカル『ライオンキング』で一世を風靡したジュリー・テイモアによる、仮面やパペット使いが楽しい『魔笛』から、現代政治をテーマとしたピーター・セラーズ演出の『ニクソン・イン・チャイナ』まで、その多彩なレパートリーがオペラの底知れぬ奥深さ、可能性を示しているが、その中で、筆者にとっては一つ、嬉しい再発見があった。人類の最古の文学「神話」を伝承する上で、「オペラ」はおそらく今、最もふさわしいメディアなのだと、『タウリスのイフィゲニア』『ラインの黄金』を観て思ったのだ。
『タウリスのイフィゲニア』
(c) Ken Howard/ Metropolitan Opera
ギリシャ、ケルト、北欧、日本…。太古の昔に紡がれた神話は、超人的な力を持ちながらも喜び、愛、怒り、嫉妬といった、人間と同じ感情に突き動かされる神々と、絶対的な運命に懸命に抗い、生きる人間たちが探求し、愛し、戦い、滅びゆくさまを描き、世代から世代へと語り継がれてきた。
装飾をそぎ落としたシンプルな文体によって、それらは人々の想像力をかきたて、畏怖や憧憬の念を持って語られてきたが、20世紀に映画、テレビというヴィジュアルメディアが台頭すると、「神話」の立場は一変する。画面の中ですべてを分かりやすく、具体的に見せるテレビドラマや映画作品のインパクトが、口承文化を凌駕してしまったのだ。
人間はより分かりやすいメディアを楽しみ、代々慣れ親しんだ物語よりも、複雑に描きこまれた新しい物語を好むようになった。神話は物語のメインストリームから押しやられ、様々な芸術の「インスピレーション」だったり「こどもの読み物」という立場に甘んじるようになってしまったが、そんななかで今回のライブビューイングの二作、『タウリスのイフィゲニア』と『ラインの黄金』には、神話本来の「血沸き肉躍る」生々しさ、壮大さが存分に表れていたのである。
『タウリスのイフィゲニア』スーザン・グラハム)、プラシド・ドミンゴ
(c) Ken Howard/ Metropolitan Opera

グルック(1714-1787)作曲の『タウリスのイフィゲニア』は、ギリシャ神話に想を得たエウリピデスの同名悲劇のオペラ化。復讐の連鎖をテーマとした長大な物語の、最終部分にあたる。
ミケナイの王女である主人公イフィゲニアは、かつて父によって女神への生贄とされたが、ひそかに女神に命を救われ、今は遠方の地で巫女として暮らしている。
そこに一人の男が現れ、ミケナイでは娘を生贄とした王を恨んで王妃が王を殺し、それを憎んだ王子が王妃を殺したと語る。
自らの一族が殺し合い、滅びようとしていることを知った王女は悲嘆にくれるが、いっぽうで男も何ごとか思いに囚われ、死を望んでいる。
実は彼は王女の弟で、母親を殺したことで良心の呵責にさいなまれ続けていた…。
終盤、二人は互いが姉弟であることに気づき、そこに現れた女神によって弟の罪が許されて幕が下りるのだが、それまでの2時間近くのほとんどが、二人の「嘆き」で構成。大きくうねるような筋はなく、ひたすら過酷な運命よ、天よ、罪深い私よ…と、魂の叫びが繰り返される。
一歩間違えば単調、せっかちな現代人なら「退屈」と切って捨ててしまいそうなところだが、実際にはかぶりつきの席で観る芝居さながらに、主人公の嘆きは圧倒的な迫力をもって客席を覆い尽くす。立役者は「声」。「オペラの改革者」としてバロック音楽後期に装飾を排し、登場人物の赤裸々な感情表現を可能としたグルックによる楽曲に、イフィゲニア役スーザン・グラハムの声が魂を注ぎ込み、立体化しているのだ。微妙な濃淡を駆使した水墨画のように陰影に富み、厚みのある声で、繰り返される嘆き。そのスケール感はギリシャ神話のそれにふさわしく、人間の声の力、音楽の力と言うものを改めて思い起こさせる。王子役プラシド・ドミンゴも、この日は風邪で本調子ではなかったものの、さすが往年のスター歌手、安定感のある声で王子の鬱々たる心情を歌った。
なお、原作では弟の罪が「これまでの涙で洗い流され」、姉弟が抱き合い歓喜の中で終わるのだが、スティーブン・ワズワースの演出ではイフィゲニアが片手で弟を抱きしめながら、もう片方の手では亡き母のストールを握りしめたまま幕となる。彼女にとって弟は愛する家族だが、同時に母の仇でもある。彼女はこのあと、果たして復讐の連鎖を断ち切ることが出来るのか? 今と言う時代に、9.11同時多発テロの現場でもあったNYでこの作品を上演する意味について、考えさせる演出だ。古代ギリシャの昔から逃れられない苦しみ、悲しみ、憎しみらと、私たち人間は懸命に格闘し続けているのだ。
『ラインの黄金』「指輪」に呪いをかける地下の一族の長、アルベリヒ(エリック・オーウェンス)
(C)2010 The Metropolitan Opera
 一般に、神話は登場人物の「他者との対立」「自身の葛藤」の問題を同時に抱えているが、『タウリスのイフィゲニア』では後者の色が濃いのに比べ、北欧神話とドイツの英雄伝説をベースとしたワーグナーの大作オペラ『ニーベルングの指輪』は圧倒的に前者の物語である。第一部(「序夜」)にあたる『ラインの黄金』では、世界を支配できる黄金の指輪を巡る神々、人間、巨人、地底族の争いの発端が描かれ、舞台は天上から地底、再び天上へと目まぐるしく動き、巨大な蛇が出てきたり神がハンマーをふるって雷を起こしたりと、超常的な表現も多い。なまなかな演出ではワーグナーが渾身の力で書き上げた音楽のスケール感が逆に削がれてしまう、難しい作品なのだが、METが今回、作品を委ねたのはロベール・ルパージュ。映像を効果的に使った幻想的な演劇で知られる彼は、全作を通して、彼が「装置」と名付けた仕組みを考え出した。
 イメージとしては、舞台の後ろ半分を、木琴状に細い板が敷き詰められている。これらの板は一枚、一枚自由に傾斜をつけることができ、持ち上げることもできる。映像を照射することもできる。仕組みとしてはこれだけのことなのだが、開幕早々、観客は度肝を抜かれる。「装置」はカーテンのように吊り上げられ、その前に「ラインの乙女」たち3人がやはり宙釣りになって現れ、歌う。歌声に呼応して「装置」に泡の映像が現れ、観客はそれが川底であることを知る。
 以降、「装置」は段違いに置くことで入り組んだ地形を表したり、先ほどとは異なる吊り上げ方で地底への道のりとなったりと、変化自在に形を変え、作品世界を表現してゆく。後方を持ち上げた傾斜舞台、いわゆる「八百屋舞台」は、劇団四季『ジーザス・クライスト・スーパースター』ジャポネスク版の大八車を使った装置(美術・金森馨)を想わせもするが、90年代にしばしば日本で仕事をしていたルパージュなので、ひょっとするとこの舞台を観て想を得たのかもしれない。METでルパージュが以前、手掛けた『ファウストの劫罰』ではあまりに前面に出ていた映像も、今回は「薬味」的な利かせ方にとどまり、ほどよい。
この創造的な「装置」の中で、歌手たちはその類まれな声量を発揮し、物語のスケールをさらに拡大。神々の長(ブリン・ターフェル)の軽率さ、地底族の長(エリック・オーウェンズ)のふつふつと煮えたぎる憎悪など、キャラクター表現も的確だ。MET音楽監督のジェームズ・レヴァイン自らがタクトを振るオーケストラも、緻密かつ重厚でスリリングこの上ない。3D映画に勝るとも劣らないダイナミックな神話が、ここにはある。
METはこの大作を上演するにあたり、シンプルながら45トンもある「装置」を受け入れるため、大規模な改修工事を行ったという。リーマンショック後、恵まれているとはいえない経済状況のなかでも、彼らは方々から寄付を集め、このプロダクションを実現化した。「オペラを死にかけた芸術にしてはいけない」。以前、インタビューした劇場総裁のピーター・ゲルブが、自らに言い聞かせるように述べた言葉だ。この強い信念のもと、METは一致団結し、いにしえの物語をエキサイティングな舞台として、現代に甦らせた。
 無垢な虹色の照明がかかる橋を渡る神々。悲劇を予兆させるような、美しいその幕切れを思い出すたび、まだ10時間以上あるという本作の続きを、すぐにでも観たくなる。
『ラインの黄金』中央左・神々の長ヴォータン(ブリン・ターフェル)
(C)2010 The Metropolitan Opera
METライブビューイングは11月5日から全国にて2011~2012シーズンを順次上映。『ニーベルングの指輪』第二夜(第三部)《ジークフリート》は11月26~12月2日に上映予定。www.shochiku.co.jp/met/