2011年5月19日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「爽やかなカタルシスを誘う宙乗り」(2011.5.3 『五月花形歌舞伎』明治座)

2011.5.3「五月花形歌舞伎 昼の部『義経千本桜 川連法眼館の場』『蝶の道行』『恋飛脚大和往来 封印切の場』」(明治座)
 
 今でこそ商業演劇のイメージが強いものの、もともと明治6年、歌舞伎の芝居小屋として開場した「明治座」。この劇場で今月、16年ぶりに歌舞伎が上演されている。歌舞伎公演初日のロビーはどこも着物姿で華やぐものだが、今回は若手中心の座組ということもあって、観客の装いの中にはビンテージ着物の個性的なコーディネートなども見受けられ、目を楽しませる。
「蝶の道行」左から七之助、染五郎
写真提供:松竹
(「五月花形歌舞伎」東京・明治座 上演中~27日まで。
残席があれば当日、学生割引も有り
http://www.meijiza.co.jp/info/2011/05/main.html
昼の部の演目は『義経千本桜 川連法眼館の場(通称「四の切」)』『封印切』という分かりやすい芝居が二本に、舞踊『蝶の道行』という取り合わせ。視覚的にも美しく、歌舞伎初心者にも十分とっつきやすいが、決してお気楽な内容と言うわけではない。これらの作品に共通するのは、歌舞伎が17世紀の誕生以来、四百年以上にわたって受け継いできた世界観、「人の世の儚さ」だ。命は儚く、栄華や幸福といったものも永遠には続かない。そんな世にあって、人は何に依って生きるのか。義理か、情けか、正義それともやはり一瞬の富か…と、歌舞伎は様々な形で問いかけてきた。震災後、人々の価値観が改めて問われるなか、今回の公演ではこうした「問い」が、若手俳優たちの体当たりの演技により、直球で客席に届けられている。
「封印切」左から勘太郎、染五郎
写真提供:松竹
現世で結ばれず、蝶となった男女が、ありし日の恋を思い出しながら踊る『蝶の道行』では市川染五郎と中村七之助の二人がせつなさを漂わせながら「純愛」を演じ、大阪の商家の息子が悪友の挑発に乗って破滅を招いてしまう『封印切』では、中村勘太郎が現代のサスペンス劇に匹敵するジェットコースター的なスピード感とリアルさで「若気の至り」を熱演。それぞれに見ごたえがあるが、とりわけ強い印象を残したのが、一本目の「四の切」。源平合戦後の武士、庶民双方のエピソードを紡いだ大作「義経千本桜」の、終盤の一幕である。
親を殺され、皮をはいで鼓にされた子狐が、鼓の持ち主である静御前の従者に化けていたことが露見するものの、静と源義経の情けによって鼓を与えられ、狐は歓喜にむせびつつ、義経に危機を知らせる。
戦に敗れた平家方の人々、そして勝者であるはずが兄、頼朝に追われる義経。「義経千本桜」は一貫してこれら、滅びゆく人々のやるせない悲しみに覆われているが、その中で唯一「四の切」では、人間に勝るとも劣らない子狐の愛が報われ、一筋の光が差し込む。逆に言えば、動物にさえ純粋な親子の情があるというのに血縁同士で殺しあう人間たちへの風刺劇、という側面もあるのだが、若手の役者が懸命に演じると、あくまで「ひたすらに親を慕う子の情愛劇」として成立することが多い。
「四ノ切」左から亀治郎、門之助、染五郎
写真提供:松竹
今回、狐(通称、狐忠信)を演じる市川亀治郎は、1968年にこの役で宙乗り演出を復活し、当たり役として千回以上演じてきた、市川猿之助の甥にあたる。昨年、自主公演で伯父の指導を受け、本公演では今回が初挑戦。台詞の中に品性と憂いを醸し出す義経役の染五郎、ほんわり、おおらかなオーラで亀治郎と好対照をなす静御前役の門之助ら共演者にも恵まれ、手先を丸めたり発声を変えるなど、狐役ならではの「約束事」をこなしつつ、たっぷりとした間合いで古風な味を出したり、ダレないようテンポ良い台詞回しにスイッチしたり、と細やかな工夫が垣間見える。後半、狐の本性でもだえ泣く所作などでは、子狐らしい、キレのよい動きものぞく。
クライマックスは幕切れの「宙乗り」。狐が舞台を飛び出し、客席の上を通って彼方へ飛んでゆくという澤瀉屋(猿之助)演出は、狐のみならず物語世界全体が空に放たれ、舞台上にあった非日常と客席に存在する日常が融合するという特異な爽快感に満ちたものだが、亀治郎演じる狐は溌剌と、弾むように、天空を駆けていった。
狐が消えてゆくのと同時に、頭上から降りしきる無数の桜の花びら。亀治郎の持ち味によるのだろうか、今回のそれは、「儚さ」というより「希望」の象徴のように映った。ただ薄紙を切ったものだとわかってはいても、「爽やかなカタルシスの記念に」とばかりに、服の上に落ちたひとひらをプログラムの間やバッグに忍ばせた観客が、そこかしこに見受けられた。

2011年5月12日木曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「胸震わせる、恋の歌」(2011.4.10 石丸幹二ソロコンサート「spring with kanji ishimaru」)

「spring with kanji ishimaru」撮影:山路ゆか
2011.410 石丸幹二ソロコンサート「spring with kanji ishumaru(日本橋三井ホール)

 先日の記事で、震災後の私たちの応援ソング候補に、と提案した「春の唄」。
CDでこの曲を歌っている石丸幹二がリサイタルを行うというので、出かけてみた。
会場はほぼ満員。ポップス歌手のコンサートのような熱気むんむんというのではなく、大方を占める女性客の醸し出す落ち着いた期待感のなか、バンドのメンバーが登場し、イントロを奏で始める。
「春の唄」。さっそく、目当ての曲だ。下手から、スーツ姿の石丸が登場。
♪春を告げる風吹いて 新しい何かが始まるよ…♪
楽しさ、力強さを兼ね備えた歌いだしは、CDのまま。
だが、「新しい」という語句を、石丸はことさら、キャビネットに可憐なティーカップを飾る動作のように「そっと」置き、そのあとの「始まるよ」も丁寧に、優しく発した。
何かを大声で言われるより耳元でささやかれたほうが説得力があるのと同じで、この歌唱なら、「新しく何かが始まる」という歌詞がより際立ち、聴き手の中で希望がふつふつと漲ってくる。
楽譜に書かれた通り歌うことのできる歌手は大勢いるけれど、こんなふうに、言葉をも含めて歌を膨らませ、自在に歌える歌手はそう、多くない。音大ではじめサックスを専攻したことで自分の声を楽器的な感覚でとらえることが出来、また数多くのミュージカルやストレートプレイに主演、膨大な音符や言葉と対峙してきた彼ならではの業(わざ)だろう。
以降、石丸の気さくなトークを差し挟みつつ、コンサートは進行。CD収録曲を中心とした持ち歌が次々と披露されるなか、とあるシーンにはっとさせられた。歌ったのは16世紀イギリスの古歌「グリーン・スリーブス」。ヘンリー8世が後に妻となるアン・ブーリンのために作ったとも言われる、「緑の袖を着たつれない女性」への片思いの唄である。
石丸は最近、出演した舞台『十二夜』で吟遊詩人を演じるくだりがあり、演出家・串田和美の「何か工夫して」とのリクエストから、ハープを手に、この歌の旋律で或る物語を歌うことを思いついたのだそうだ。これを再現してみたい、と彼は椅子に腰かけ、小型ハープを抱きながら歌い始めたのだが、驚いたのはその替え歌の内容。か細くも凛としたハープの音に乗って語られたのは、「半身信仰」だったのだ。
ヨーロッパで太古の昔から信じられ、多くの神話に影響を与えてきた「半身」の概念は、男女の愛の由来を説明するものである。(拙著「アイルランド民話紀行」でも言及している。)
…昔、人間には男も女もなかった。
それを寂しく思った人間は神に訴え、神は願いを聞いて人間を二つに引き裂く。
男と女である。
二人は飽くことなく互いを見つめあうが、時の流れとともに別々に行動するようになる。
やがて互いの姿が見えないことに気づいた二人は、その喪失感から、かつて自分の半身であったところのパートナーを求め続ける。
…これが「半身信仰」による、男が女を、女が男を求め合うゆえんである。
石丸は「グリーン・スリーブス」の憂いに満ちたメロディに乗せて、この物語を穏やかに語った。
森の奥深くに迷い込んだ男と、小川のほとりを惑う女。
二人は互いを見つけることができない…。
石丸の声とハープというシンプルな音編成が、聴衆のイマジネーションをかきたてる。
そして、男が女を思いながら、疲れて眠ってしまうという幕切れにはいいようのない切なさが漂い、客席は一瞬、深い静寂に包まれた。

 震災以降、昔の彼氏に連絡するOLが増えているという。
 あまりにも多くの人々が一瞬にして家族や恋人を失ったことをニュースで見聞きし、それまで仕事第一に過ごしてきた彼女たちの中にふと、「人恋しさ」という感覚が甦ったということらしい。
 女性に限らず、それまで「脳」先行で生活してきた人々が、一種原始的な、「肌」レベルの感覚に立ち返り、「人」を希求するという現象は、日本各地で起こっているようだ。筆者の周りでも俄かに婚活に励みだした未婚男女がいる。
 そんな日本の「今」の空気に、この「グリーン・スリーブス替え歌」は思いがけなく、ぴたりと合致する一曲だった。
石丸は秋にもリサイタルを予定していて、次回はジャジーなプログラムにするということだが、出来うるなら再び、この歌…この物語を聴き、胸震わせるような太古の感覚に浸ってみたい、と思う。