2011年1月9日日曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「小さな作品も、使い捨てにせずに。」(2010.12.23 ピアノと物語『アメリカン・ラプソディ」)

左から高橋長英、佐藤充彦、関谷春子。撮影・宮内勝(写真提供・座・高円寺)
12.23ピアノと物語「アメリカン・ラプソディ」(座・高円寺)

 アメリカを代表する作曲家、ジョージ・ガーシュインの生涯が男女の俳優によって朗読され、その合間合間に、彼の名曲の数々がピアニストによって生演奏される。
音楽家の人生と作品がじっくり味わえるこの企画、座・高円寺が贈る「ピアノと物語シリーズ」の第二弾である。
第一弾は劇場開館前のプレ事業から連続上演されている『ジョルジュ』。ジョルジュ・サンドと友人の書簡の朗読を通してジョルジュの恋人、ショパンの作曲の背景が浮かび上がり、包容力溢れる竹下景子の朗読も魅力的だった。今回も、「ラプソディ・イン・ブルー」「サマータイム」「アイ・ガット・リズム」などがジャズピアニスト、佐藤允彦の自由奔放なジャズ・アレンジで演奏され、お馴染みの曲にこんな側面、あんな特徴があったかと発見が楽しい。その一方で斉藤憐による台本は、同じ「クリエイター」としてのガーシュインに対する共感からか、正規の音楽教育を受けなかった彼のコンプレックスや、それに打ち克とうと命を削るほど大作に打ち込んだ事など、陰の側面の描写に力がこもる。ガーシュインが創作のストレスにむしばまれ、脳腫瘍で亡くなったというエンディングが読まれると、それまで演奏された曲の明るさ、軽やかさとは対照的な、重厚な余韻が漂う。
劇場の芸術監督で本作の演出家でもある佐藤信は、この「ピアノと物語シリーズ」について、公演プログラムでこう、述べている。
「自分たちの劇場で作った舞台は、どんな小さなものでも使い捨てにせずに、劇場の財産として大切に育てていこう…」。
こうした考えから、『ジョルジュ』は再演を重ねてきたのだそうだ。
  舞台づくりにはいろいろな形があっていい。たとえば「今」という時代を切り取ったり、その瞬間の作者の心象風景を映した作品には、勢いやパワーが凝縮されることが多い。それとは対照的に、時間をかけて何度も上演し、練り上げてゆくことを前提とした作品は、洗練され、時代を問わず「良いものは良い」と思える内容になってゆくものだ。
たとえば歌舞伎の古典演目。以前ある歌舞伎俳優と、なぜ古典演目の演出は誰が演じてもほぼ同じなのかという話をしていて、歌舞伎400年の歴史の中で歴代の役者たちによって演出が練り上げられ、すでに「これ以上はない」と思えるほど良い形が出来上がっているからだ、という説を聞いたことがある。「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」の場面など、現代人の自分が見てもよくできているので、小手先でいじる気にはなれない、ということだった。現代演劇では再演ものは数少ないのが現状だが、元来、日本にはこんなふうに、作品を大切に育てる文化が存在しているのだ。
佐藤芸術監督の「使い捨てにせずに」という表現には、作品、劇場、そして演劇そのものに対する愛情深さと責任感がうかがえて、こういう人が芸術監督を務める劇場は幸せだと思える。
今回の『アメリカン・ラプソディー』ももちろん使い捨てではなく、年月をかけて育ってゆくのだろう。シンプルだが贅沢、そしてコクのある舞台との再会が楽しみである。

2011年1月1日土曜日

Theatre Essay  観劇雑感「金久美子さん。」(2010.11.25「アジアン・スイーツ」)

「アジアン・スイーツ」(ザ・スズナリ)

 お嫁に行き遅れている姉。自分の中の「女」を抑えられない母。失職した弟。結婚生活がうまくいっていない、姉の幼馴染み…。
そんな4人が容赦なくぶつかりあい、互いをさらけ出しながらも、絆、あるいは腐れ縁を結びなおしてゆく。
閉塞感の中でもがく人々のドラマに「スズナリ」という濃厚な小劇場空間はぴったりで、それゆえ、「姉」を先頭に彼らが一人ずつ舞台を去ってゆく幕切れには、感動的なまでの解放感が漂う。しかしそれに加え、今回、或ることを意識していた観客はきっと、深い思いに包まれたことだろう。
本作は2004年に亡くなった女優・金久美子(キム・クミジャ)のために鄭義信が書き下ろし、彼女が最後に主演した芝居なのだ。
それ以来の再演だという今回の公演。このことを意識して観ると、落ち着いて見えながらもやり場のない鬱憤を抑え込んだ「姉」役を、体当たりで演じる鶴田真由の姿に、どうしても金久美子がだぶってしまう。
筆者自身はその生の舞台は数えるほどしか見ていないが、それでも、金久美子という女優は印象の強い役者だった。
中でも鮮烈だったのが、新宿梁山泊の「少女都市からの呼び声」(93年)のヒロイン、雪子役。背筋がぴんとして発声も清々しく、役に全てを捧げているような潔さがありながら、時折、謎めいた微笑を浮かべ、人間的な奥行きを感じさせた。雪子の「ガラスの子宮を持つ少女」という荒唐無稽な設定にも、この人が演じると不思議な説得力があった。
そんな金が今回の芝居に出ていたら…、こんなシルエットでここに立っただろう、この台詞はこんな調子、こんな間合いで言っただろう、などと想像してしまう。観客一人びとりの心の中で、女優・金久美子は今も鮮やかに、役を演じることができるのだ。
40代という、俳優として脂ののった年代でこの世を去らねばならなかったことは悲しいことだが、人としては、こうした形で生き続けることが、ある種の理想なのではないか…、という気もする。
おそらく、鶴田真由はこういったすべてを承知で、この役を彼女なりに演じたのだろう。「姉」が万感の思いで客席(設定では、「姉」の店)を見まわし、去ってゆく幕切れ。まるで誰かに何かを語りかけているかのように、丁寧に、心を込めて宙を見つめ、ゆっくりと踵を返す姿が印象的だった。