2011年12月30日金曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「演劇という、幸福な共同作業」(2011.12.3 『みんな我が子』新国立劇場小劇場)


「みんな我が子」(左から)麻美れい、長塚京三。写真提供・梅田芸術劇場
  「いいなあ、この一座」。
そんなふうに、羨ましさを覚える舞台が、たまにある。
例えば「いい舞台」を観れば充実感で気分が高揚するし、「一座が家族のように仲が良さそうな舞台」を観れば嬉しさを覚える。
けれど今回の「みんな我が子」には、「もしも自分もこの一座に身を置いていたら、とびきり刺激的な体験ができたかもしれない」などと、羨望にも似た空想をしてしまった。それほど、クリエイティブな《気》が満ちた舞台だった。

素材である『みんな我が子』は1947年、作者のアーサー・ミラーにトニー賞をもたらした戯曲だが、日本ではそうなじみのある作品ではない。
第二次世界大戦終了後のアメリカ中西部を舞台に、戦中に財をなしたとある一家の「秘密」と、それが暴かれたために起こる悲劇を描く。一つのホームドラマとして始まりながら、後半「社会対個人」「資本主義対理想主義」「アメリカの欺瞞」の物語へと、急激にスケールアップしてゆく鋭い社会批判劇は、初演当時、清濁飲み込んで戦争を生き抜いたアメリカン人たちにとっては、身に覚えがあるとまでは言わなくとも、痛みを感じずには観られない戯曲であっただろう。だが日本の私たちにとっては、いかんせん「アメリカ中西部」「1947年」は私たちには遠く、アメリカ人が当時抱いていた戦後の「気分」も分かりにくい。本作を日本で上演しても、遠い世界の出来事として目の前を流れていってしまう可能性が大きいことが、上演回数が多くない理由なのだと容易に想像がつく。
それにもかかわらず、今回の舞台は前半は淡々とホームドラマを見せ、後半一気にドラマティックに展開、はらはらさせつつ、最後の台詞まで観客をくぎ付けにする。出演者たちが自分の芝居に溺れることなく、作品の全体像、その中での自分の立ち位置を把握し、一つ一つの台詞を発しているので、それぞれの表現が分かりやすい。饒舌な翻訳劇にありがちな、「思いもしない言葉を言わされている」「日本人の習慣にはないけれど台本に書かれているのでこうしている」という瞬間がないのも、いい。これは相当、濃密な稽古を積み重ねていったのだろう…。そう思いながら観ていたら、終演後のアフタートークで、まさにその話題が出ていた。
今回、演出を手掛けたのは新進演出家のダニエル・カトナー、33歳。「オペラ座の怪人」で知られるハロルド・プリンスの一番弟子、ということだが、ブロードウェイではまだ自身の代表作はなく、「新人」と言っていい。アフタートークでは劇中、一家のナイーブな次男役を熱演した田島優成が司会を勤め、カトナーへの全幅の信頼を滲ませながら、彼の言葉を引き出していた。「演出にあたって、あなたが始めに『今日まで3か月間この台本と寝食を共にして準備してきたけれど、僕の描いた像を押し付けるつもりはありません』と言ってくれたのが印象的でした」「演出家の考えだからこう動く、ということはしてほしくないんです。役者さんたちには、自分でリアルに感じながら演じてほしい。芝居を絵画に例えると、稽古前に輪郭を描いておくのが僕の役目。色彩は稽古が始まってから入れてゆきます」「ハロルド・プリンスさんからはどんなことを学ばれたんですか?」「準備の大切さですね。演出する戯曲をいただいたら、すべての方向から研究します。今回で言えば、第二次世界大戦、アメリカ中西部、登場人物の職業、軍隊などについて、リサーチを積み重ねました。役者さんに質問されて、答えられないことがあってはまずいですから()」。他の仕事同様、演出は一つの「職業」なので…というコメントからも、この人の生真面目さ、勤勉さが覗く。といっても真面目一本やりというわけでもなく、最期には田島に促される形で、出演者の物まねを披露していた。
この演出家のもと、一座は熱い議論を交わしながら、緻密に芝居を組み立てて行ったのだという。プログラムの中でも、一家の大黒柱を演じた長塚京三は「一緒に勉強しているようで、学生劇団みたい。この感じ、好きなんだ」、その妻を演じた麻美れいも「(カトナーは)決してあきらめないし、物作りに対する姿勢が前向きで、いい」と語っていて、田島のみならず全員が迷いなくカトナーに身を委ね、丁寧に稽古を重ねていったらしい。(どんなにか、熱気あふれる現場だったろう!) その結果、舞台はストーリーテリングに終始せず、出演者の一人ひとりが光を放ち、好感を抱かせる。「たたき上げの成金・工場経営者」役は長塚には本来、不似合な役のはずだが、「子どもには自分以上の生活をさせたいと願う親世代への鎮魂歌という意味を持たせたい」「(難解な作品を苦しみながらも楽しむという)、『品の良さ』がこの作品にはある」という意識を持って演じたそうで、役に彼ならではの知性を加え、終盤、どうにも自身を正当化することができず、破滅してゆく過程の悲劇味を倍増させた。麻美れいも、これまで演じた『オイディプス王』や『双頭の鷲』の王女など浮世離れした役の印象が強く、アメリカの地方の一主婦役というのが最初は不思議に感じられただが、芝居の全体像が見えるにつれ、この舞台には彼女が持つスケール感が必要だったのだと納得。芝居を締める最後の台詞も、麻美が発することで「絶望の果ての希望」を含ませ、印象深いものにしていた。次男の恋人で、家長を追い詰めることになる真実を知らせる娘役は、自分の恋のためなら他がどうなってもいいという女心がいやらしく見えるリスクのある役だが、可憐でさっぱりとした持ち味の朝海ひかるが演じると、一途な娘の健気な行動に見える。その兄で、舞台後半をかき回し、不意に去ってゆく青年役の柄本佑も、一家に対しての怒りだけでなく、次男に対するコンプレックスを秘めているようで、去った後も余韻を残す。隆大介演じる、夢をあきらめきれない医師と、山下容莉枝演じる、夫を現実に向き合わせようと必死のその妻、加治将樹、浜崎茜演じる、ブルーカラーながら子宝に恵まれ幸福そうなカップルといった、一家の隣人たちの存在にもリアリティがあり、「遠い物語」を現代日本の観客に引き寄せていた。

ところで、本作のタイトルは『All My Sons』だが、邦題は『みんな我が子』。どこかで聞いたようなフレーズだ。作品解説には、旧約聖書がインスピレーションとあったが、もっと身近に聞いているような気もしないでもない。
…と考えていて、ふと思い出した。なんのことはない、筆者が参加している子育てママサークルでの、合言葉だ。サークル活動では、子ども同伴。まだしつけも始まらない乳児たちは、ママの目を盗んで(?)は他の赤ちゃんのおもちゃで遊んだり、ママたちの荷物を逆さまにしたり、体の上に乗ってきたりと、予測不可能の行動をする。けれど何があっても「みんな我が子」の精神で、お互いおおらかに接し、慈しみあおう、とサークルでは言い合っている。
劇中でも、この「みんな我が子」というフレーズは、「重さ」の違いはあれ、こうした「人類愛」を訴えるものとして言及されていた。自分、自分の家族だけ良ければいいという考えでは、人は生きては行けない。命あるもの皆、慈しみあってこそ、人の世は成立するのである。
もしかしたらこの、日本では馴染のない社会批判劇を今、ここで上演することになった意図も、こういうところにあったのかもしれない。


2011年12月2日金曜日

Today's Report [Theatre 番外編] 劇場ちらしの誘惑、2011-2012冬。

 劇場に行くと、入場時に近々の公演ちらしの束を渡される。
 開演前に席につき、この束を一枚一枚捲っては、この演目、あの顔合わせに思いを巡らせるのが、演劇ファンの愉しみの一つだ。
 ただ、長年(思えば幼稚園の頃から)芝居に関わっていたりもすると、最近は劇作家と演出家と主演俳優の名前を見ただけでだいたいどんな舞台か想像できてしまい、そうそう「どきどきわくわく」することもないのだが…、1110日、渋谷パルコ劇場(演目は井上芳雄ら出演の『Triangle vol.2』)で渡されたちらし束40枚弱は、珍しく次々にそんなときめきを提供してくれた。この冬、観たい演目の忘備録という意味合いもあって、記しておきたい。

*唐十郎×蜷川幸雄×宮沢りえ、藤原竜也、西島隆弘(AAA)。『下谷万年町物語』(20121Bunkamuraシアターコクーン)
 最も目を引くちらしだ。
 太い筆書きのタイトル。黒地に赤い蝶たちが舞い、中央に男装の宮沢、藤原、西島隆弘の扮装写真。「昭和21年からオカマたちでにぎわい、電蓄から鳴るタンゴの曲で、ハエがとび交う町でした」というキャッチコピー…。唐作品のインパクトの強さが、そのままに表現されている。出演者の中に新宿梁山泊の演出家で、以前NHKのドラマで役者としても魅力的だった金守珍の名がある点でも惹かれる舞台だ。

*野田秀樹×宮沢りえ、池田成志、近藤良平。『The Bee 日本人キャスト版』(20124月東京・水天宮ピット大スタジオ、5月大阪、6月北九州、松本、静岡)
 NHK大河ドラマ『江』で主人公の姉、茶々を演じていた宮沢。正直なところドラマには一年を通して感情移入できなかったが、彼女の演技には目を見はった。過酷な運命に翻弄されつつ自分の芯を見失わずに生きた茶々を、腹からのしっかりとした発声で体現。玉三郎主演舞台から野田秀樹の芝居まで、これまでの様々な舞台経験が見事に生きている、と感じさせた。その彼女が『下谷万年町物語』、本作と再び舞台づいている。コンドルズの近藤良平も面白いことをしてくれそうだ。23月には東京で英国人バージョンの上演もあり、野田さん(昔、担当編集者としてお世話になっていたので親しみをこめて「野田さん」)は演出のみならず、両バージョンに出演もする。

*フランク・ワイルドボーン×濱田めぐみ、田代万里生。『ミュージカルBonnie&Clyde俺たちに明日は無い』(20121月青山劇場)
 日本発の見応えある新作ミュージカル『MITSUKO』で手堅い作曲を披露したワイルドボーンの最新作を、劇団四季を退団した濱田と、『マルグリット』で彗星のように現れた逸材、田代が演じる。濱田は『ライオンキング』のナラ、『アイーダ』のタイトルロール、『ウィキッド』のエルファバと、中声域でパワフルな歌唱力を求められるヒロインを次々にものにしてきた稀有な女優。いっぽう田代は安定感のあるテノールで、一見王子様系のルックスながら『マルグリット』では骨太なオーラを発していた。この二人が、今回はジャズ風味たっぷりというワイルドボーンの曲をどう歌いこなすだろう。

*井上ひさし×長塚圭史×北村有起哉。こまつ座『十一ぴきのネコ』(20121月紀伊國屋サザンシアター)
 キャッチコピーに「子どもとその付添いのためのミュージカル」とある。井上が執筆時に掲げた言葉だろうか。井上ひさしのミュージカル、というと、筆者には子どもの頃に出演した『真夏の夜の夢』が思い出深い。井上が或る児童劇団のために書き下ろしたミュージカルで、現実の中にシェイクスピア作品を入れ子にし、ひねりを加えた冒険物語。台詞は簡明ながら一つ一つが生き生きとして、歌詞も歌っていて面白く、子どもごころにとても楽しかった。本作はその彼が書いた「子どものためのミュージカル」というので、我が子の観劇デビューにどうかな?と思いながらちらしをよく見たところ、対象は小学生以上。1歳の娘にはまだ早かった。…が、キャストに北村有起哉、ラッパ屋の木村靖次、新感線の粟根まことら。演出家に長塚、と個性派の名前が連なっていて、とうてい「無難な舞台」には収まりそうもない。今回は「付添い」だけで観に行くか。

*佐藤健×石原さとみ×ジョナサン・マンビィ『ロミオ&ジュリエット』(20125月赤坂ACTシアター、大阪イオン化粧品シアターBRAVA!
 「旬」の若手俳優が体当たりで演じると、得難いきらめきを放つ『ロミ・ジュリ』。今回はブラウン管での活躍めざましい佐藤健が、初舞台でこの演目に挑戦する。ジュリエットに石原さとみ、そのほかの共演陣も橋本さとし、長谷川初範、石野真子、キムラ緑子と「観てみたい」キャストだし、なによりロンドンで刺激的な舞台を発信し続けるドンマー・ウェアハウス出身の若手演出家、ジョナサン・マンビィが本作で日本初進出というのが興味をそそる。日英の若い才能が互いに遠慮なく、この「初挑戦」で火花を散らしてほしい。

  他にも、
 文学的な、奥行きのある作品で真価を発揮するダンサー首藤康之が、「鶴の恩返し」をモチーフとした新作に挑む日英共同制作のバレエ『鶴』(20123KAAT横浜芸術劇場ホール)。
 田代万里夫と、Triangle vol.2』で芸達者なところを見せていた新納慎也が出演、今年9月の初演が大入りだったという『スリル・ミー』の再演(20123月アトリエフォンテーヌ)。
 宝塚退団後初舞台の『ロコへのバラード』で颯爽と女優デビューを果たした彩吹真央が、ユースケ・サンタマリアほか曲者揃いのキャストに紅一点加わる『モンティ・パイソンのスパマロット』(20121月赤坂ACTシアター)。
 ベルギー、英国など数か国が制作にかかわり、森山未來や書道家の鈴木稲水、中国・少林寺の武僧ら多彩な出演者を、ダンス界の寵児シディ・ラルビ・シェルカウイが束ね、手塚治虫をダンスで表現する『テヅカ』(2012年2Bunkamuraオーチャードホール)などなど、束をめくっていて「おっ」と手を止めさせるちらし、多数。このうち何本観られるだろう。他にもあちこちから情報が舞い込んでくるだろうし…。乳児のいる身としては、スケジュールのやりくりが悩ましい冬となりそうだ。

2011年10月24日月曜日

Theatre Essay 観劇雑感 「『女二人の戦い』劇の意外な爽やかさ」(2011.10.2明治座『大奥~第一章』)

『大奥~第一章』ふく(春日局)役・松下由樹(左)、江与(江)役・木村多江
(10月27日まで上演中。明治座 www.meijiza.co.jp/ )
写真提供・明治座 

 カーテンコールで近くの席のマダムたちがさっと立ち上がり、力強く拍手を始めた。
観客の年齢層が高く、たいていは落ち着いた空気に包まれている「商業演劇」のカーテンコールでは、珍しい光景だ。そっと表情をうかがうと、満たされた、いい笑顔をしている。2003年から放映されたフジテレビ時代劇『大奥』の今回の舞台化は、江戸時代初期という遠い時代の、将軍の乳母(春日局)と実母(江与または江)という特殊な境遇の女性たちの争いを描きながらも、現代の女性観客の心を確かに、掴んでいた。

遠い世界の物語を現代に引き寄せた要素の一つは、ビジュアル。まずは春日局や江与の絢爛豪華な衣裳が、理屈抜きに目を楽しませる。役柄に合わせてデザインされ、京都の職人によって一点一点制作されたという打掛は、安土桃山文化の華やかな残り香を漂わせつつ、それぞれに個性的。なかでも、江与が後半の一シーンで纏う「流水千鳥文友禅打掛」が印象的だ。現代ではちょっとお目にかかれない、「かぶいている」とでも形容したくなるような鮮やかな青緑の地色に、多産の彼女に因んで「夫婦円満」のシンボル「千鳥」と、人生の幾多の荒波を乗り越えてきたことを表す「流水」のモチーフ。江与役の木村多江が纏って登場すると、照明を跳ね返さんばかりに燦然と輝く。江与の「濃い」人生を凝縮したかのような衣裳、なのだ。
江与の衣裳より、「流水千鳥文友禅打掛」(写真提供・明治座)

 女性客へのアピールという面では、徳川家康、秀忠、家光の三世代の将軍役に近藤正臣、原田龍二、田中幸太朗という、演出の林徹が呼ぶところの「新旧イケメン実力派俳優」を配しているあたりも、手堅い。近藤は出番が3シーンしかないのが嘘のような大きな存在感を放っているし、気弱で三枚目的な秀忠を楽しそうに演じる原田は終盤、死にゆく妻を介抱する場面で一転、しんみりと情味を醸し出し、確かな演技力を見せている。
 しかし何よりの成功は、適度に笑いの要素もまぶしつつ長大な物語を3時間にまとめあげ、女主人公二人の生き様をすっきりと浮かび上がらせた、浅野妙子の脚本だろう。こうした「女の戦い」芝居では、対立の顛末を面白おかしく描くことに心血が注がれがちだが、本作はまず、二人のこれまでのいきさつを簡潔に回想。背景を明確にしているので、観ているほうは物見高い野次馬的感覚ではなく、より役の心に近づきながら、運命のいたずらによる二人の争いを感慨深く観ることができる。
 のちに春日局となる「ふく」は武士の妻だったが、不幸な事件がきっかけで離縁され、子供たちとも別れて上京。ようやく徳川家の乳母の職を得る。生きるため、また人生の理不尽さに対する悔しさを晴らすため、この仕事に邁進しようと心に決めている。目的を定めた「キャリアウーマン」タイプの女性である。
 いっぽう江与は、織田信長の姪という特別な環境に生まれた、いわゆる「セレブ」。世が世なら天真爛漫に育つところだが、度重なる戦乱で両親を失い、長じてからは政略結婚の具となり、子と引き離され…と悲運続きで、感情的、情緒不安定気味でもある。三度目の結婚で徳川秀忠の正室となり、今度こそ「家族」を形成し、安らぎを得たいと渇望している。
 ほぼ異次元で生きてきたこの二人が、江与の出産を機に出会う。生まれたばかりの竹千代は家康の考えによって江与から取り上げられ、ふくが養育。キャリア上のステップアップにも直結するとあってふくは熱心に職務に励むが、江与は突然現れた見知らぬ女に子を奪われた無念さを晴らそうと、次に生まれた国松を自分の手で育て、溺愛。さらには次期将軍はこの子にと願い、ふくとの対立が激化してゆく…。
 「キャリアの追求」と「子への情愛」。現代の、仕事や子供を持ったことのある女性ならごく自然に持っている二つの原動力が共存を許されず、激しく衝突しているところに、この物語の悲しさがある。和解を取り持つような第三者もなく、心を割って話す機会のないまま、二人は勝負をつけるところまで行ってしまう。竹千代の立場が危ういと考えたふくが直訴し、家康が「次期将軍は竹千代」と宣言。江与は失意と狂気の果てに倒れ、ふくは「春日局」として大奥組織を確立してゆくのだ。一見、ふくの「大勝利」、である。

 しかし、物語はここでは終わらず、それから年月を経た春日局の死までをフォローする。自分が育て上げた将軍を託せる人材に出会い、もう思い残すことはない、と心安らぐふく。するとその目の前に江与があの世から「迎え」に訪れ、二人は連れ立って旅立つ。誰にも平等に訪れる死の前では、「勝ち」も「負け」も儚い、一瞬の夢でしかない…。この「諸行無常」的な結びに余韻があって、いい。二人はこの時初めてわだかまりを越え、穏やかに語り合う。
 思えばお互い、母と子が平和に暮らせる世に向かって、懸命に生きていたのかもしれない。ふくが立派な将軍を育て、また江与が犠牲となって長男を手放したことで、徳川家は安泰となり、戦国時代が終わったのだ。二人の間に同性ならではの共感が生まれ、波乱万丈の成り行きにはらはらしていた観客もほっと胸をなでおろす。
 そして幕切れ。ふくはこの世の見納めとばかりに客席を見まわし、きっぱりと「さればこれにて、おさらばにございます。」と言い放ち、踵を返す。「素敵なキャリアウーマン」が言いそうな、潔いこの世との別れである。
 こんなふうに充実した人生を生きられたら…。
 遠い世界、遠い物語を軽々と飛び越え、そう思わせる脚本だ。バイタリティ溢れる松下由樹のふく、病床で子への思いを吐露するシーンで涙を誘った木村多江の江与、二人の渾身の演技がさらに役に魂を吹き込む。筆者も仕事を持つ女性、母ゆえだろうか。観劇後、二人の人生から思わぬ「元気」を得て、足取り軽く、地下鉄の駅へと向かった。

2011年9月25日日曜日

Today's Report [Film]東京国際映画祭、今年は「グリーンカーペット」の意義もより深く。


特別上映『がんばっぺ フラガール!~フクシマに生きる。彼女たちのいま~』
©2011「がんばっぺ フラガール!」製作委員会

 六本木ヒルズを中心に、東京の秋を様々な映画で彩ってきた「東京国際映画祭」。この10月で24回目を迎えるアジア最大の映画祭概要が、このほど発表された。
 もともと、スターたちが歩くカーペットを「レッド」ではなく「グリーン」とすることに始まり、作品上映をグリーン電力で行ったり地球と人間の共生をテーマとした部門を設立するなど、環境への配慮をアピールしてきた映画祭だが、今年は3月の大震災を受け、課題先進国の日本が地球のために何ができるのか、また「映画祭だからできる」「映画を通じてできる」ことは何なのか、改めて考える映画祭を目指しているという。
自然との共生をテーマとした10本を上映する『natural TIFF』部門に加え、今年は特別上映として、『震災を越えて』部門を特設。ワールド・プレミアとなる『がんばっぺ フラガール! ~フクシマに生きる。彼女たちのいま~』(小林正樹監督)など、被災地のリアルな声を届ける3作品を上映する。 このほか、例年TIFFで行っているグリーン募金の延長として、今年は被災地での上映活動「シネマエール東北」への募金も同時に行い、協力者にはグリーンのリストバンドが配布される予定だ。
『アルバート・ノッブス』右・グレン・クローズ
©Morrison Films / Chrysalis Films 2011
映画祭の華、コンペティション部門も今年は豊作。
前年比17%増の975本のエントリーがあり、このうち選出された15本が「東京サクラ・グランプリ」を競う。60歳の木こり(役所広司)と新人ゾンビ映画監督(小栗旬)が出会い、心を通わせるコメディ『キツツキと雨』(沖田修一監督)をはじめ、問題児揃いの学校で教鞭をとる教師(エイドリアン・ブロディ)を描いた『デタッチメント』(トニー・ケイ監督)、香港ホラーの雄、オキサイド・パン監督の3Dホラー『夢遊 スリープウォーカー』などジャンルも国も多彩な作品が集うが、個人的にはジェイムズ・ジョイスに影響を与えた作家ジョージ・ムーアの短編小説をロドリゴ・マルケス(『彼女を見ればわかること』)が映画化した『アルバート・ノッブス』をまず、観たいところ。女性の社会進出がままならなかった19世紀のアイルランドで、男性と偽り、ホテルで執事として働く女性の、はかない恋物語である。予告を見た限りでは、主人公役グレン・クローズはさすがに声は女性のそれだが、オールバックの髪形でパリッとスーツを着こなした姿は、初老の執事そのもの。コロンビア人のマルケスがアイルランドの有名とは言い難いこの物語のどこに惹かれ、どのように映像化しているか、興味深い。
他にも恒例の「アジアの風」部門、「日本映画・ある視点」部門、「WORLD CINEMA」部門、特別招待部門など魅力的なプログラムが映画祭にはひしめいている。上映スケジュール表とにらめっこしながら鑑賞予定を立てるのが楽しみな9日間である。

「第24回東京国際映画祭」1022日(土)~30日(日)六本木ヒルズ(港区)ほか
http://www.tiff-jp.net/ チケット発売日:108日(土)前売り鑑賞券発売開始
問い合わせ ハローダイヤル(921日~1030日)日本語:035777860005055418600(全日8時~22時) 英語:0354058686(全日9時~18時)

2011年9月24日土曜日

Theatre Essay 観劇雑感「『血沸き肉躍る神話世界』を描き出すオペラ」(METライブビューイング2011.8.17『タウリスのイフィゲニア』2011.9.17『ラインの黄金』)

『ラインの黄金』 (C)2010 The Metropolitan Opera
 世界最高峰の歌劇場、メトロポリタンオペラの舞台を高音質、高画質で映画館上映する「MET(メット)ライブビューイング」が、今年度のシーズン開幕を目前に、過去5年間のレパートリーからアンコール上映を行っている。
今を時めくスター歌手たちが集うMETの舞台は、音楽的にも非の打ちどころのない完成度のものばかりだが、オペラ界のみならずブロードウェイ、映画界など各分野で活躍する演出家たちが招かれ、創造的、時にセンセーショナルな演出で上演されることでも有名だ。今回のアンコール上映でも、ミュージカル『ライオンキング』で一世を風靡したジュリー・テイモアによる、仮面やパペット使いが楽しい『魔笛』から、現代政治をテーマとしたピーター・セラーズ演出の『ニクソン・イン・チャイナ』まで、その多彩なレパートリーがオペラの底知れぬ奥深さ、可能性を示しているが、その中で、筆者にとっては一つ、嬉しい再発見があった。人類の最古の文学「神話」を伝承する上で、「オペラ」はおそらく今、最もふさわしいメディアなのだと、『タウリスのイフィゲニア』『ラインの黄金』を観て思ったのだ。
『タウリスのイフィゲニア』
(c) Ken Howard/ Metropolitan Opera
ギリシャ、ケルト、北欧、日本…。太古の昔に紡がれた神話は、超人的な力を持ちながらも喜び、愛、怒り、嫉妬といった、人間と同じ感情に突き動かされる神々と、絶対的な運命に懸命に抗い、生きる人間たちが探求し、愛し、戦い、滅びゆくさまを描き、世代から世代へと語り継がれてきた。
装飾をそぎ落としたシンプルな文体によって、それらは人々の想像力をかきたて、畏怖や憧憬の念を持って語られてきたが、20世紀に映画、テレビというヴィジュアルメディアが台頭すると、「神話」の立場は一変する。画面の中ですべてを分かりやすく、具体的に見せるテレビドラマや映画作品のインパクトが、口承文化を凌駕してしまったのだ。
人間はより分かりやすいメディアを楽しみ、代々慣れ親しんだ物語よりも、複雑に描きこまれた新しい物語を好むようになった。神話は物語のメインストリームから押しやられ、様々な芸術の「インスピレーション」だったり「こどもの読み物」という立場に甘んじるようになってしまったが、そんななかで今回のライブビューイングの二作、『タウリスのイフィゲニア』と『ラインの黄金』には、神話本来の「血沸き肉躍る」生々しさ、壮大さが存分に表れていたのである。
『タウリスのイフィゲニア』スーザン・グラハム)、プラシド・ドミンゴ
(c) Ken Howard/ Metropolitan Opera

グルック(1714-1787)作曲の『タウリスのイフィゲニア』は、ギリシャ神話に想を得たエウリピデスの同名悲劇のオペラ化。復讐の連鎖をテーマとした長大な物語の、最終部分にあたる。
ミケナイの王女である主人公イフィゲニアは、かつて父によって女神への生贄とされたが、ひそかに女神に命を救われ、今は遠方の地で巫女として暮らしている。
そこに一人の男が現れ、ミケナイでは娘を生贄とした王を恨んで王妃が王を殺し、それを憎んだ王子が王妃を殺したと語る。
自らの一族が殺し合い、滅びようとしていることを知った王女は悲嘆にくれるが、いっぽうで男も何ごとか思いに囚われ、死を望んでいる。
実は彼は王女の弟で、母親を殺したことで良心の呵責にさいなまれ続けていた…。
終盤、二人は互いが姉弟であることに気づき、そこに現れた女神によって弟の罪が許されて幕が下りるのだが、それまでの2時間近くのほとんどが、二人の「嘆き」で構成。大きくうねるような筋はなく、ひたすら過酷な運命よ、天よ、罪深い私よ…と、魂の叫びが繰り返される。
一歩間違えば単調、せっかちな現代人なら「退屈」と切って捨ててしまいそうなところだが、実際にはかぶりつきの席で観る芝居さながらに、主人公の嘆きは圧倒的な迫力をもって客席を覆い尽くす。立役者は「声」。「オペラの改革者」としてバロック音楽後期に装飾を排し、登場人物の赤裸々な感情表現を可能としたグルックによる楽曲に、イフィゲニア役スーザン・グラハムの声が魂を注ぎ込み、立体化しているのだ。微妙な濃淡を駆使した水墨画のように陰影に富み、厚みのある声で、繰り返される嘆き。そのスケール感はギリシャ神話のそれにふさわしく、人間の声の力、音楽の力と言うものを改めて思い起こさせる。王子役プラシド・ドミンゴも、この日は風邪で本調子ではなかったものの、さすが往年のスター歌手、安定感のある声で王子の鬱々たる心情を歌った。
なお、原作では弟の罪が「これまでの涙で洗い流され」、姉弟が抱き合い歓喜の中で終わるのだが、スティーブン・ワズワースの演出ではイフィゲニアが片手で弟を抱きしめながら、もう片方の手では亡き母のストールを握りしめたまま幕となる。彼女にとって弟は愛する家族だが、同時に母の仇でもある。彼女はこのあと、果たして復讐の連鎖を断ち切ることが出来るのか? 今と言う時代に、9.11同時多発テロの現場でもあったNYでこの作品を上演する意味について、考えさせる演出だ。古代ギリシャの昔から逃れられない苦しみ、悲しみ、憎しみらと、私たち人間は懸命に格闘し続けているのだ。
『ラインの黄金』「指輪」に呪いをかける地下の一族の長、アルベリヒ(エリック・オーウェンス)
(C)2010 The Metropolitan Opera
 一般に、神話は登場人物の「他者との対立」「自身の葛藤」の問題を同時に抱えているが、『タウリスのイフィゲニア』では後者の色が濃いのに比べ、北欧神話とドイツの英雄伝説をベースとしたワーグナーの大作オペラ『ニーベルングの指輪』は圧倒的に前者の物語である。第一部(「序夜」)にあたる『ラインの黄金』では、世界を支配できる黄金の指輪を巡る神々、人間、巨人、地底族の争いの発端が描かれ、舞台は天上から地底、再び天上へと目まぐるしく動き、巨大な蛇が出てきたり神がハンマーをふるって雷を起こしたりと、超常的な表現も多い。なまなかな演出ではワーグナーが渾身の力で書き上げた音楽のスケール感が逆に削がれてしまう、難しい作品なのだが、METが今回、作品を委ねたのはロベール・ルパージュ。映像を効果的に使った幻想的な演劇で知られる彼は、全作を通して、彼が「装置」と名付けた仕組みを考え出した。
 イメージとしては、舞台の後ろ半分を、木琴状に細い板が敷き詰められている。これらの板は一枚、一枚自由に傾斜をつけることができ、持ち上げることもできる。映像を照射することもできる。仕組みとしてはこれだけのことなのだが、開幕早々、観客は度肝を抜かれる。「装置」はカーテンのように吊り上げられ、その前に「ラインの乙女」たち3人がやはり宙釣りになって現れ、歌う。歌声に呼応して「装置」に泡の映像が現れ、観客はそれが川底であることを知る。
 以降、「装置」は段違いに置くことで入り組んだ地形を表したり、先ほどとは異なる吊り上げ方で地底への道のりとなったりと、変化自在に形を変え、作品世界を表現してゆく。後方を持ち上げた傾斜舞台、いわゆる「八百屋舞台」は、劇団四季『ジーザス・クライスト・スーパースター』ジャポネスク版の大八車を使った装置(美術・金森馨)を想わせもするが、90年代にしばしば日本で仕事をしていたルパージュなので、ひょっとするとこの舞台を観て想を得たのかもしれない。METでルパージュが以前、手掛けた『ファウストの劫罰』ではあまりに前面に出ていた映像も、今回は「薬味」的な利かせ方にとどまり、ほどよい。
この創造的な「装置」の中で、歌手たちはその類まれな声量を発揮し、物語のスケールをさらに拡大。神々の長(ブリン・ターフェル)の軽率さ、地底族の長(エリック・オーウェンズ)のふつふつと煮えたぎる憎悪など、キャラクター表現も的確だ。MET音楽監督のジェームズ・レヴァイン自らがタクトを振るオーケストラも、緻密かつ重厚でスリリングこの上ない。3D映画に勝るとも劣らないダイナミックな神話が、ここにはある。
METはこの大作を上演するにあたり、シンプルながら45トンもある「装置」を受け入れるため、大規模な改修工事を行ったという。リーマンショック後、恵まれているとはいえない経済状況のなかでも、彼らは方々から寄付を集め、このプロダクションを実現化した。「オペラを死にかけた芸術にしてはいけない」。以前、インタビューした劇場総裁のピーター・ゲルブが、自らに言い聞かせるように述べた言葉だ。この強い信念のもと、METは一致団結し、いにしえの物語をエキサイティングな舞台として、現代に甦らせた。
 無垢な虹色の照明がかかる橋を渡る神々。悲劇を予兆させるような、美しいその幕切れを思い出すたび、まだ10時間以上あるという本作の続きを、すぐにでも観たくなる。
『ラインの黄金』中央左・神々の長ヴォータン(ブリン・ターフェル)
(C)2010 The Metropolitan Opera
METライブビューイングは11月5日から全国にて2011~2012シーズンを順次上映。『ニーベルングの指輪』第二夜(第三部)《ジークフリート》は11月26~12月2日に上映予定。www.shochiku.co.jp/met/

2011年8月30日火曜日

Today's Report [Theatre] モンティ・パイソンで六番目にいい人、エリック・アイドル来日(2011.8.29ミュージカル『モンティ・パイソンのスパマロット』製作発表記者会見/英国大使館)

 60年代末から70年代にかけて一世を風靡し、「コメディ界のビートルズ」と呼ばれた英国のお笑いグループ、モンティ・パイソン。
 彼らの映画代表作『モンティ・パイソン・アンド・ホーリーグレイル』(1973)に歌をつけ、脚本を書きなおして2004年、ミュージカル『スパマロット』として発表したエリック・アイドルが、このほど日本版の製作発表のため来日した。
会見に登壇したエリック・アイドル。今回が初来日だという。(c) Marino Matsushima

 大学ではアーサー王伝説の専門家である教授のゼミに籍を置いた筆者にとって、『…ホーリーグレイル』は教材として授業で観た、懐かしい作品だ。内容的にはアーサー王と騎士たちによる聖杯探求を徹底的にパロディ化した「おバカにもほどがある」作品なのだが、ケンブリッジ、オックスフォード卒のインテリたちが作っただけあって、題材であるアーサー王伝説をよく咀嚼している、と学会での評価も高い。(因みに、この作品の時代考証に活躍したメンバー、テリー・ジョーンズは今では中世学者としても認められ、先日もわが恩師訪英の際、情報交換をしたという。)…が、逆に言えばアーサー王に対する知識がベースにあるのとないのとでは、観客の「お楽しみ度」も随分変わってくる。義務教育でアーサー王が教えられない日本では、この作品は「マイナー」、もしくは「マニアック」に受容されていたが、そこに新たな可能性を加えたのがこの『スパマロット』だ。
 舞台は中世、英国の森…で始まるはずだが、このミュージカル、冒頭から「ある言葉の聞き違い」のため、まったく違う設定から始まる。衣裳も歌も、完璧にそのたった一言の勘違いのために作られていて、何とも贅沢なおバカ加減。以降、舞台ならではの賑々しさ、カラフルさのなか、「ミュージカルというもの」「ブロードウェイ」「フランス人」など、多岐にわたる新たな風刺トピックが盛り込まれ、アーサー王伝説についての知識がなくともそこそこ楽しめる。もはや「マニアック」さは払しょくされ、ブロードウェイではトニー賞作品賞を受賞。《王道作品》として認められるに至った。
 米英、ヨーロッパ各地、オセアニア、韓国公演を経て今回、実現する日本版は、現地からの引っ越し公演ではなく、放送作家の福田雄一が脚色・演出を担当し、ユースケ・サンタマリアらが出演する翻訳版。福田には日本版ならではの「脚色」がある程度委ねられているそうなので、面白さが伝わりにくいということは少なそうだ。
 さて、英国大使館で行われた記者会見。エリザベス女王の肖像画を半分打ち消すような、絶妙な高さ(?)に設置された壇上に現れたアイドルは、のっけから「モンティ・パイソンで六番目にナイスな人、エリック・アイドルです。(注・モンティ・パイソンのメンバーは6人である)。今日は日本の首相に選ばれる準備のため、来日しました(注・この日は民主党総裁選挙が行われた)」と笑わせた後、真顔で「大震災の後、このような作品を日本で上演していいものかという話を日本側のプロデューサーさんたちとしていたのですが、逆にこういう時だからこそ、やらなければということになりました。人生が困難にぶつかった時、何かを見失いそうな時、笑って、踊って、歌うことの大切さを思い出してほしい。悲劇を経験したからこそ、今、世界中がその認識を新たにすることができると思うのです」と熱弁。と思うとまたとぼけた口調に戻り、「ここ(英国大使館)には長くいられないので、皆さん、このことをすぐに理解してくださいね」。笑いで聴く人の心をつかみ、シリアスなメッセージを伝え、また笑いで締めくくる。ほんの数分だが、さすがにスピーチがうまい。
 出演者それぞれの挨拶を経て、質疑応答。様子を見ているとエリック・アイドルへの質問が出てこないので、それならば、と挙手してみる。
「キリスト教が背景の中世の物語ということもあって、日本ではアーサー王伝説はなじみのあるモチーフではありませんが、英国人であるアイドルさんにとっての、その魅力を教えて下さい」。
「日本と英国の中世史には、共通する部分があるように思います。ドイツオペラの『パルシファル』もそうですが、ナイトの爵位を与えられる、あるいは上の者に認められることで騎士(や武士)が抱く精神というものが、似通っていると思うのです…」。その後彼は映画『七人の侍』に自分の好きなタイプのおかしなキャラクターがいるなどと述べ、「だから日本の観客にもアーサー王伝説と言う素材は決してとっつきにくいものではないと思う」とまとめた。聞きたいのはそこではなく、彼にとってのアーサー王伝説の魅力、なのだけれど、もうマイクは回収されてしまったし、質疑応答も「これで終わり」。テリー・ジョーンズに負けず劣らずアーサー王に関する造詣の深さが感じられただけに心残りもあったが、お互い、生きていればまた取材の機会もあるだろう。その時じっくり、聞いてみることとしよう。
 日本版の関係者の話を聞く限りでは、脚色の福田こそモンティ・パイソンの20年来のファンだそうだが、ユースケ・サンタマリアはじめ、出演者たちはモンティ・パイソン自体、よく知らないとのこと。だがエリック・アイドルの印象を尋ねられ、ユースケは「匂い立つようなインテリジェンス!」と即答。そう、口を開かなければごく普通の(?)知的な英国紳士が、おバカなギャグを通して「人生の、一つの乗り切り方」を見せていたのが、モンティ・パイソンの笑いというものだったのだ。この日のアイドルのたたずまい、そして発言は、「モンティ・パイソンとは何か」を明瞭に教えてくれるものだった。
ユースケ・サンタマリア(前列中央)ら日本版「モンティ・パイソンのスパマロット」の出演者たち。口髭、金髪の鬘とメークにユースケは「俺ってわかります?」 (c) Marino Matsushima
2012年1月9日~22日赤坂・ACTシアター、2月2日~5日大阪・森の宮ピロティホール http://www.spamalot.jp/